北陸・山陰編(31):荒神谷遺跡(06.9)

 そして荒神谷遺跡へ。1984年、弥生時代銅剣の総数約300本をはるかに上回る358本という大量の銅剣が出土、さらに翌85年には銅剣出土地の約7メートル東寄りで銅鐸6個と銅矛16本を納めた埋納壙が検出され、青銅器研究史上空前の大発見として注目を集めた遺跡です。ここも青銅器のレプリカが置かれ発掘当時の状況を復元していますが、残念なことに近くによって見ることはできません。対面につくられた展望台から遠望するだけ。資料館も設置されていますが、すでに閉館の時間でした。
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 それにしても、なぜ出雲でこれだけ大量の青銅器が埋納されていたのか? 古代史に関する私の拙い知識でもとても説明できませんが、以下のように考えています。弥生時代、出雲に大きな政治勢力が存在していたのは間違いないでしょう。当時、後漢の出先機関楽浪郡と結びついていた北九州勢力が後漢の滅亡(220)により動揺し、大陸との交易ルートを確保するために近畿・吉備・出雲勢力の連合政権が成立したのではないか。その盟主である邪馬台国が魏と結んで交易ルートを手中にするが、魏は280年に滅亡してしまいます。それによる動揺、さらに卑弥呼の死による混乱が起こり、倭国の王とそれに連なる首長たちは、前方後円墳を舞台とする新しい祭りを創造することにより、連合政権の団結を維持しようとしたのではないか。その過程で、古い祭りの祭器であった青銅器が必要なくなり、一括して埋納されることになった。まだまだ新たな遺跡が発見される可能性も高いと思うので、研究の進展に期待します。
 タクシーの運転手さんは饒舌ではありませんが、淡々と冷静な口調で、この地の状況を教えてくれました。景気に敏感なタクシー運転手の実感では、今は不景気のどん底と感じられるそうです。宍道町は、故竹下登の出身地で、かつて彼の義兄弟にあたる方が町長をしていたとのこと。彼が首相であった時期には、電話一本で簡単に道路をつくることができたそうです。そうした公共事業に依存し続けたため、行政も住民も地場産業を育てる努力をせずバブル崩壊後はひどい不況に苦しんでいます。また農政が変わり、4ヘクタール以下の農地では補助金がもらえなくなるので、このあたりの農民はさらに苦境に陥るだろうとおっしゃっていました。水田や棚田をよく見かけたのですが、仕事をしていたのはすべてお年寄りでしたね。北朝鮮や飲酒運転に関するニュースがさかんに報道されるなか、地方は確実に緩慢なる死に向かっているという思いを強くしました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2007-01-05 07:02 | 山陰 | Comments(0)
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