「愉快な裁判官」

 「愉快な裁判官」(寺西和史 河出書房新社)読了。井上ひさし氏の座右の銘「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに」を実感させてくれる素晴らしい本にまた出合えました。本の神様、ありがとっ。著者は現職の裁判官で、「裁判官は軽々しく発言すべきである」という信念をもって、国家権力に対する鋭い批判を新聞の投書などでされてきた方です。「軽々しい発言とは?」と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。寺西氏の考えを私なりにまとめるとこうです。まず三権分立の趣旨から言って、裁判所の最も重要な役割は行政府・立法府の暴走から人々の人権を守ることです。だからそれができる裁判官であるかどうかを、国民は見極めなければならない。そのためには、裁判官が日頃からどういう物の考え方をする人かということを知っていた方がよい。その考え方に疑問があれば、それを批判して正す機会も生れます。よって裁判官は軽々しく発言し、自らの考えを国民に提示すべきである。Q.E.D. 「裁判官は中立であるべき=政治的な意見を発表してはいけない」というのは、司法の素顔を国民から隠すための恐るべきデマゴギーなのですね。そしてとどめとして、筆者はこう述べられています。
 裁判官がどういう考え方をしているか分からない方が安心などというのは、お上にすべてをお任せしますという態度であり、およそ民主主義社会の国民に相応しい態度とは思えないのです。そこまで、裁判官を信頼しきってしまうのは、民主主義社会の国民に相応しい態度ではなく、奴隷の態度なのです。
 内閣府が公表したアンケート(2007.2.1)で、裁判員に選ばれた時に、義務でも参加したくない(33.6%)、義務なら参加せざるをえない(44.5%)と消極的な姿勢を示す回答が約8割を占めているのは、「お上にすべてお任せ」という態度の裏返しなのかもしれません。
 前置きが長くなりましたが、社会的弱者や人権を守るために行政府・立法府を監視するという、真っ当な姿勢を貫く裁判官・寺西氏のエッセイです。とは言っても、決して眉間に皺を寄せ奥歯を噛み締めて読むような本ではありません。氏の言葉です。
 持続的に反権力的な行動をとろうと思ったら、悲壮な決意で深刻ぶって行動するのではなく、「こういうふうにやったら面白いぞ」というふうに楽しみながらやる必要があると私は思うのです。そうでないと、身が持ちません。つまり、息の長い闘いをするということを大真面目に考えるならば、「面白がる」とか「楽しむ」ということが絶対に必要だという結論に達するのです。
 この言葉どおり、軽やかなフットワークで面白おかしく闘い続ける姿には頭が下がります。圧巻は、最高裁から戒告処分を受けた際の経緯ですね。氏が組織犯罪対策法に反対する市民集会に出席して発言しようとしたところ、地方裁判所長から暗に「出席するな」と注意されます。やむなくパネリストを辞退することとその理由について集会で発言したのが、司法府の逆鱗に触れたようです。仙台高裁は戒告処分を決定、氏は即時抗告、そして最高裁で争った結果、戒告処分が確定しました。その過程についてはぜひ本書をご覧ください。氏を戒告にするために最高裁が行ったなりふりかまわぬ暗黒裁判には瞋恚の炎が燃え上がります。
 国家権力と添い寝をしない裁判官を、陰に陽にありとあらゆる手段を使って黙らせる/屈服させるのが今の日本の司法だということがよくわかりました。また権力に擦り寄る裁判官が多い理由についての氏の分析にも納得です。昇給差別による経済的痛手ではなくて、人並みの昇給が遅れることによるプライドが傷つくことを怖れる裁判官、体制に対して言うべきことがないから何も言わない裁判官。権力寄りの価値観を持っている裁判官。映画「それでもボクはやってない」を見て感じた怒りと疑問に、はっきりとした形を与えてもらいました。感謝。
 それではどうすればよいのか。氏は、裁判官の人権感覚のレベルは、一般市民の人権感覚のレベルの低さを反映していると指摘し、まず一人ひとりが自分自身の人権感覚を磨くことが大事だと提言されています。そして、代用監獄の廃止、死刑の廃止など、法的な枠を決めて裁判官が反人権的なことを出来なくすること。やはりまともな国会議員を一人でも多く衆議院・参議院に送り出すことですね。棄権なぞしている場合じゃありませぬ!
 というわけで、日本の裁判を考える上で好個にして必須の一冊。やさしく、ふかく、ゆかいに、裁判について学ぶことができました、お薦めです。なお叡智にあふれる珠玉の言葉が多々ありますので、まとめて引用します。
 政治家や体制べったりの宗教家や学者が宣伝する道徳、宗教、その他種々のイデオロギーというのは、「人間が食って寝る」という最も根本的なことから目をそらさせることを目的としているのではないでしょうか。

 教師というのは、人を育てる職業ですが、この学校の教師は、法律や規則を始め、世の中で既存の前提とされているものに対して、何の疑問も抱かない人材を育てようと思っているかのように思えました。

 間違いを改めるという柔軟さに欠けていること、これが官僚化した組織の最大の欠点ではないでしょうか。先例や慣行を重視し、無謬性(間違いを犯さない)神話を勝手にでっち上げ、その神話が傷つくのを怖れてそもそも間違いを指摘されないために情報を秘匿してしまう。

 あらゆる既成の制度なり価値観なりに対して疑問を呈していくことこそが、学問的な態度なのであり、そのような姿勢を養うことこそが、「教育」なのではないかと思います。

 先程の同窓会誌の座談会で、成績の良い子をライバル校に取られる話が出ています。私は、別に、母校に成績優秀者が集まる必要があるとは思っていません。結局、ある特定の学校が成績優秀者を集められるかどうかなんて、社会全体にとっても、個々の子供にとってもどうでもいいことです。それぞれの子供が、自分の能力を伸び伸びと育てていくことができるかどうかが問題なのですから。

 黙っていても権力者が適切な権力の使い方をしてくれるなどと期待するのは、それこそ民主主義の放棄のようなものです。

 国民としては、人権擁護に熱心でない裁判官を批判するとともに、自らの人権感覚についても反省をし、社会的弱者にとって住みよい社会にするための立法措置を突きつけていかねばならないと思ってください。そうすることが、何かのきっかけで、自分自身が社会的弱者に転落した時の救いとなり、より安心して暮らせる社会の建設に資するのです。

 最高裁が「公正らしさ論」によって制限するのは、時の政治権力に逆らって憲法や人権を守ろうとする裁判官の自主的な言論であり、政治権力の「要請に基づき…協力する行為」や裁判所と行政機関の人事交流は何ら問題にされないのです。つまり、最高裁の言う「外見的にも中立・公正な態度」とは、本来立法府や行政府をチェックすべき裁判所が立法府や行政府の要請に応じてそれに協力したり、行政府などと人事交流をする一方で、政治権力に楯突く裁判官を懲戒処分することによって「政治権力に迎合する態度」のことなのです。そして、これこそが、最高裁が決定の中で言う「司法と立法、行政のあるべき関係」なのです。…最高裁が求めているのは、…「裁判官は政治権力に逆らうな」ということに過ぎないのです。

 オウム真理教に対してだけ適用されるのなら望ましいというように、法の下の平等などどこ吹く風というような人権感覚に日本の国民が陥ってしまっていることがなおさら恐ろしいのであります。立法に反対する人たちも、「オウム真理教だけでなく、我々にも向けられるかもしれないのだ」というような反対の仕方ではなく、「我々に向けられてはいけない法律は、オウム真理教に向けられてもいけないのだ」と言うべきだったのです。
 白眉はこの一文。これは本当に肝に銘じておきたい言葉です。自分の弱さをよく知り、そしてその弱い自分に何ができるのかを考え続けること。
 (ナチス支配下のドイツのような)限界的な状況になった時に不正と闘う勇気が自分にはないと思うからこそなおのこと、自由に物が言える今のうちに、そういう限界的な状況を生じさせないために闘おうとしているのです。
 追記。自分の信念に基づいた行動に対してぐちゃぐちゃ言われた時に、氏はこう言い返すそうです。「だからどうだと言うんだ」 マイルス・デイビスの口癖と同じですね。So What ! 余談ですがアルバム「アット・カーネギー・ホール」に収録されている「So What」が一番好きです。
by sabasaba13 | 2007-02-15 06:15 | | Comments(0)
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