「9.11と9条」

 「9.11と9条 小田実平和論集」(小田実 大月書店)読了。高校生の時に、氏の「何でも見てやろう」(現在は講談社文庫に収録)をむさぼるように読んだ思い出があります。温もりと体臭にあふれた好奇心をぶちまけながら世界各地をふらつき歩いた旅行記、もし未読の方がおられましたら今でも読む価値はあると思います。お薦め。今にして思えば、私が「旅していろんなものを見てみたい症候群」にかかったのも、この本の影響かもしれません。その後、氏はベトナム戦争に反対するために「ベトナムに平和を!」市民連合(略して「べ平連」)を鶴見俊輔氏らとともに立ち上げ、上意下達・中央集権ではない新しい形の市民運動を模索しつづけます。ある問題に対応して、いろんな政治原理をもついろんな人たちが集まってことの解決をはかる、というのがその根本です。本書は、そこから45年間にわたる著述の中で、平和に関する論考を集大成したもの。
 経済的不平等、戦争とテロルと殺戮の跋扈、環境破壊などを眼前にしてついつい無力感に苛まれてしまいます。そうした無力感を一般市民に蔓延させ、孤立分散化させ、沈黙をさせるというのが官僚・政治家・財界そしてメディアのねらいだということはわかっているのですが、具体的に何をすればよいのかについて思いを馳せると足も竦んでしまいます。私同様、もしそうした思いにとらわれている方がいらしたら、ぜひ本書を読んでみてください。氏は「無理をしては運動はつづかないし、ちょっと無理をしないと、運動は運動として意味あるものにはならない」と言っておられますが、ちょっと無理すればできる市民運動についてのヒントに満ち溢れています。
 氏の考え方の根本にあるのは、硬直的な原理やイデオロギーではなく、人間です。安楽に生きたいという人間の真っ当な願いを無視せず受け容れた上で、ではどうしたら世界中の人々が安楽に生きられるようになるのかを考えること。そして実際に、ちょっと無理をして行動を起こすこと。心に残ったエピソードがありました。1968年、佐世保に原子力空母「エンタープライズ」が入港する時に、大きな反対運動が起こりました。しかし英語で書かれたプラカードや、英語による空母乗組員への呼びかけを行ったのは、小田氏のグループだけだったそうです。災いをもたらす「しくみ」を動かしているのはあくまでも個々の生身の人間であり、その人間に言葉で呼びかけることによってその「しくみ」からの離脱をうながす。ベ兵連が行ったアメリカ軍脱走兵の援助は、その運動の一環なのですね。加害者であれ、被害者であれ、加害者=被害者であれ、物を食べ息をし寝て喜びを求める生身の人間であることを忘れない。大義名分や国家の論理にからめとられてそれを忘れた時に、人間はいとも簡単に残虐になってしまう。エール大学の心理学者がこんな実験を行ったそうです。「体罰と学習」の心理学の実験という名目で、被実験者が集められ、電気ショックを与えるスイッチをゆだねられます。隣室には生徒がいて、まちがった答えをしたら電気ショックを自由に与えても(死の危険さえ招く400ボルトまで)、あるいは与えなくともよいという指示が出されます。そして臨席する学者たちは、「大学が責任をもつ」「科学の進歩のためだ」などと説明して、より強い体罰を与えるよう被実験者を促します。実は、隣室には誰もおらず、叫びや壁を叩く音などをテープで流しているだけなのです。権威・権力に守られかつ責任を問われない個人が、立派な大義名分の名のもとに、見ず知らずの他者に対してどれくらい残虐になれるかを調べる実験なのですね。400ボルトの電気ショックを与える人は10%ぐらいだと学者は予想していたのですが、結果は64%。
 汗臭く力強く人間的な、小田氏の言葉の数々を引用します。
  私が安楽に暮らすことで他人を傷つけ、苦しめるのなら、それは安楽に暮らしていることにはならないという認識をできるかぎりとり入れること…

 「平和憲法」の下ですでに二度日本はいくさに参加していて(※朝鮮戦争・ベトナム戦争)、それは決して自衛のための戦争でさえなかった。

 戦争はまともな人間どうしが、それぞれに正義やら国益やら愛国心やらの大義名分を背負って殺し合いをする行為だ。

 私は「主権在民」の民主主義を政治の原理としてもつ市民社会の根本はデモ行進―市民のデモ行進だと考えている。…市民がさまざまなちがいを越えて、共通の政治主張、反対、抗議の意思表示のために集まり、ともに歩く。これが市民のデモ行進であり、市民社会だ。…こうした市民のデモ行進がいかにさかんか、さかんでないかで、市民社会の成熟の度合いが決まる。

 戦争が戦争を起こす力を持つ「大きな人間」だけではできないことだ。多数、無数のふつうの市民、「小さな人間」を使ってのみ、戦争はできる。とすると、無力な市民、「小さな人間」は逆に大きな力を持つことになる。彼らは戦争に反対し、武器を持つことを拒否すれば、戦争はなし得ない。ただ、この戦争反対、武器拒否は「小さな人間」ひとりではできない。多くの人がともに動いて、初めてできる。「反戦」は必然的に「反戦運動」になる。

 公立学校に授業料を払うような遅れた国は日本と韓国とアメリカだけです。

 憲法とは何のためにあるのか。それは政府だとか権力者にこれを守らせるためにある。…しかし権力者たちに守らせようとしたって守らないんだから、市民が立ち上がって闘わなきゃいかん。闘って守らせるんです。デモしたりストライキしたりしてやる。わかっていただきたいのは、そうしないと民主主義が生きて来ないことです。…選挙だけにまかしたら民主主義はできない。選挙の投票だけをやりなさいというのは、それは民主主義を議会に限定することです。ほかにもデモもストライキもあって民主主義は成立するのです。
 古代アテナイから民主主義は始まるでしょう。デモクラシーってのは、もとはデモスクラトスということですよ。デモスというのは民衆ですね。クラトスは力です。「民衆の力」ということがデモクラシーなんです。これは忘れてはいけない。…民主主義の元祖のアテナイでは選挙はほとんどしていなかった。全員参加とか回り持ちだとか、そういうことで民主主義政治をやっていた。それが選挙になったのは、堕落した形態になったのがローマからなんです。ローマから専制国家にかわったでしょう。ローマ帝国になって行くのだから。怖いです、選挙は。片方で選挙は必要だ、しかし同時にデモもストライキもあったうえでの政治が民主主義です。それが成熟した市民社会です。

 何が災害が起こったらすぐ日本が飛んで行く。ただ個々の民間のボランティア活動でやるんじゃなくて国家としてやる。…難民が出る。難民救済機を日本が飛ばす。アメリカとかフランスからとりあえず難民救済機を買え。たくさん買って、災害があったら日本が出て行く。その災害救済機には日の丸をつける、それで新しいかたちの日の丸認識ができる。何かあれば、必ず日の丸が助けてくれる。
 そういう国家の在り方を作るべくみなさんが努力しないとだめだ。災害があったら日本が飛んでくる。難民は連れていってくれる。そして、あと済んだら、この国が好きだったら居なさいと日本は言う。それをやったら、そうしたら安全保障理事会でも日本は大事な国だから、スンナリ票が集まる。国際的プレゼンスもできる。(会場、拍手)
 これが平和憲法を実践することです。―に書いてあることです。しっかりしいや。(会場、笑い)
 政治家・官僚・財界が怖れるのは、多くの一般市民が怒りに満ちた意思表示(デモ)をみんなですることでしょう。江戸時代で言う徒党/強訴ですね、幕府もこれを厳しく禁止していました(実際には多数起きましたが)。教育やメディアを通して、それをさせないための伏線をはりめぐらせいるのが現状だと思います。だとすると、「自分が一番したいことはするな。敵がもっとも嫌がることをせよ」という戦いの鉄則から言って、私たちが大きなデモを行えば彼らにとって大きなプレッシャーとなるはずです。「Days Japan」4月号で知ったのですが、イタリアのビチェンツァという小さな町で米軍基地拡張に反対する十万人規模のデモが行われたそうです。1999年に米軍機がスキー場のリフトを切断し20人を殺したところですね。結果はどうなるかわかりませんが、みんなの安楽な暮らしを守る方向に事態を動かしていく力にはなると思います。
 東京都では来年度から、週に一時間、生徒に強制的な「奉仕」をさせるようですが(学徒動員!?)、いっそのこと「愉快なデモの仕方」「人目を引くプラカードの書き方」「楽しいシュプレヒコールのあげ方」を教えてあげたほうが市民社会の成熟にとっては有効なのではないかな。
by sabasaba13 | 2007-03-24 07:06 | | Comments(0)
<< 「チョムスキーとメディア」 鎌倉錦秋編(11):妙法寺・妙... >>