「リトル・トリー」

 「リトル・トリー」(フォレスト・カーター めるくまーる)読了。両親を失った少年(インディアン名でリトル・トリー)が、チェロキー族の祖父母のもとで育てられ、インディアンの生き方を学んでいくという事実をまじえた自伝的小説です。さまざまなエピソードも面白く興味深いし、またインディアンが白人から受けた迫害と虐殺、そしてその後の差別と蔑視についてもきちっとふれられています。しかし何よりも、祖父母たちが語る、叡智と滋味にあふれた数々の言葉が大きな魅力です。何世代も後の子孫たちが幸せに暮らせるように、仲間や他者を尊重し、自然や動物と共存しなければならない。これはインディアンだけの智慧ではなく、おそらくこれまで生存してきたすべての民族にとっての鉄則だったはずです。だからこそ、人類はこれまで生き延びてくることができた。さて土地と労働を売買できるようにしひたすら利潤を求める資本主義原理、そしてそれを世界的規模でくりひろげるグローバリゼーションが跋扈している今日、その対立物となるこうした智慧はふみにじられています。人類生き残りを左右する分岐点である現在、あらためてこうした智慧をかみしめるべきだと思います。全てを精神論でかたづけシステム改変への努力を放棄するやり方は好きではありませんが、その努力を支える霊の心を忘れてはいけないと思います。私が一番好きな、祖母の言葉です。
 だれでも二つの心を持っているんだよ。ひとつの心はね、からだの心(ボディー・マインド)、つまりからだがちゃんと生きつづけるようにって、働く心なの。からだをまもるためには、家とか食べ物とか、いろいろ手に入れなくちゃならないだろう? おとなになったら、お婿さん、お嫁さんを見つけて、子どもをつくらなくちゃならないよね。そういうときに、からだを生かすための心を使わなくちゃならないの。でもね、人間はもうひとつ心を持ってるんだ。からだを守ろうとする心とは全然別のものなの。それは、霊の心(スピリット・マインド)なの。いいかい、リトル・トリー、もしもからだを守る心を悪いほうに使って、欲深になったり、ずるいことを考えたり、人を傷つけたり、相手を利用してもうけようとしたりしたら、霊の心はどんどん縮んでいって、ヒッコリーの実よりも小さくなってしまうんだよ。
 いい言葉だなあ。思うに、今、日本の社会や学校で蔓延している"競争"というのは、欲深になり、ずるいことを考え、たとえ傷つけることになっても相手を利用してもうけることなんですね。これでは、霊の心はどんどん縮んでいって、原子核よりも小さくなるのは必然です。さあそれでは、滋味あふれる言葉を紹介します。
 なにかを失くしちまったときには、へとへとに疲れるのが一番いいんじゃ。

 男は、朝になったら自分の意志で起きるもんじゃ。

 だれだって自分が役立たずの穀つぶしだと思いこむのはよくない。

 言葉がもっと少なかったら、世の中のごたごたもずっと減るのに。
 
 昔を知らなければ、未来は開けてこない。

 山だけはおまえに対していつまでも変わらん。そしておまえも山を愛するじゃろう。その気持ちさえあれば、真っ正直に生きていける。

 おまえはとっても正しいことをしたんだよ。なにかいいものを見つけたとき、まずしなくちゃならないのはね、それをだれでもいいから、出会った人に分けてあげて、いっしょに喜ぶことなの。そうすれば、いいものはどこまでも広がっていく。それが正しい行ないってものなんだ。

 なあ、リトル・トリー。おまえの好きなようにやらせてみせる。それしかおまえに教える方法はねえ。…おまえは自分でさとっていくしかないんじゃよ。

 森を切りきざんだりせずに、いっしょに生きること。そうすりゃ、森はわしらにいつだって食べものを与えてくれる。

 (朝日を見ながら)世界はまたすっかり生きかえったな。

 人にただなにかを与えるよりも、そのつくりかたを教えてあげたらなおいい。そうすれば、相手は自分の力でうまくやってゆくだろう。与えるばかりで教えなければ、一生与えつづけることになりかねない。それでは親切のつもりがあだになる。相手はすっかり依存心を起こし、結局自分自身を失ってしまう。ある人たちはずっと与えつづけることを好む。なぜなら、そうすることによって自分の見栄と優越感を満たすことができるからだ。本当は相手の自立を助けるようなことを教えてあげるべきなのに。

 国の中にも同じように見栄っぱりで偉ぶりたがるのがある。大盤ぶるまいをして、それが大国のしるしだとうぬぼれている。まっとうな考え方からすれば、与えるかわりに、相手の国の人々が自力で道を切りひらく意志を持つよう助けるべきであるのに。ところが彼らはけっしてそうはしない。というのも、中には彼らに逆らって独立心を起こす連中が現れるからだ。国家の権力者たちが最初にもくろんでいるのは、相手国の民衆に彼らへの依存心を植えつけて骨抜きにすることだ。

 ケチと倹約とはちがう… お金を後生大事にして、使うべきところにも使わないお偉方がいる。それがケチだ。そんなふうになったら、お金こそがその人の神様だ。結果はろくなことにならない。倹約というのはそうではない。使うべきところにはお金を惜しまないが、けっして無駄には使わない。

 ひとつの習慣は、もうひとつの習慣につながってゆく。そうやって次々と身についた悪い習慣が悪い習慣だと、人の性格をゆがめる。お金にルーズだと、時間にルーズになり、考えかたからなにからすべてがルーズになってしまう。人々がみんなルーズになると、政治家は権力を握るチャンスだと見て取る。政治家はルーズな人々の上に君臨し、たちまち独裁者に変わってゆく。みんなが倹約をきちんとわきまえていれば、独裁者をのさばらせるようなことは起こらない。

 教育というのは二つの幹を持った一本の木のようなものだ。ひとつの幹は技術を養うもので、自分の商売を切りひらいてゆくのに応用できる知識を育てる。そういう目的にかなうなら、教育が最新の技術を取りこんでゆくのに賛成だ。…しかし、技術だけでは駄目で、もうひとつの幹も大事にしなくてはいけない。それは、ものごとを尊重する心を育てることだ。
正直であること、倹約を実行すること、なにをするにも一生懸命であること、ほかの人たちを思いやること、それが一番大切だ。尊重する心を学び取らなかったら、どんなに最新の技術を身につけたとしても、ただそれだけのこと。もっと先へ進むことはできない。

 木を切るなんて、まったくどうかしている。

 きつい冬もときどきは必要だ。…それがなにかをかたづけ、なにかをよりすこやかに育てる自然のやり方なのだ。

by sabasaba13 | 2008-01-15 06:13 | | Comments(0)
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