「昭和天皇」

 「昭和天皇」(原武史 岩波新書1111)読了。「大正天皇」(朝日新聞社)によって、この天皇の知られざる姿を克明に描きだした著者が、いよいよ昭和天皇の実像に迫ろうと試みたのが本書。とは言っても、大正天皇とは違い、昭和天皇についてはこれまで様々な人々によって様々に語られてきたし、また「昭和天皇(上・下)」(ハーバード・ビックス 講談社)、「昭和天皇と戦争」(ピーター・ウエッツラー 原書房)、「昭和天皇の軍事思想と戦略」(山田朗 校倉書房)など詳細な研究も登場しています。屋上屋を架すことになるのではという懸念もありましたが、著者は宮中祭祀に焦点をしぼっておられます。裕仁=昭和天皇を読み解く際のポイントは、彼の宮中祭祀へのこだわりだというのが著者の主張です。彼は、神々に向かって、一体何を祈っていたのか。そして、祈りがかなわなかったにもかかわらず、戦後も戦前と同様に祭祀を続けたのか。彼の生い立ちや成長過程を要領よくまとめながら、論は進められていきます。そして若い頃はそれほど宮中祭祀に熱心ではなかった昭和天皇が、その考えを改めたきっかけは、母・貞明皇太后の存在であったというのが著者の主張です。夫君とともに御用邸に入りびたり、祭祀をおろそかにした結果、神罰によって大正天皇は脳病に冒されたと彼女は信じ込んだようです。この母からの強い働きかけや圧力により、一転して祭祀に意欲的に取り組むようになる。そして対米英戦争が始まると戦勝をアマテラスに祈願し、戦局が悪化すると皇室の護持を皇祖神に祈願し続ける彼。降伏の可否を決断する最後の局面では、「万世一系」の皇室を自分の代で終わりにしては皇祖神に申し訳ないという責任意識が彼を支えていたようです。そこには、国民に対する責任意識は希薄、そして侵略された地域の住民に対する責任意識があったかどうかは、はなはだ疑わしい、と著者は述べられています。
 そして敗戦。昭和天皇は戦後もなお祭祀にこだわり続けますが、その理由は二つ。一つには戦中期における自らの誤った祈りを「神」に対して謝罪し、悔い改めて平和を祈り続けようとしたこと。彼は、「平和の神」であるはずのアマテラスに戦勝祈願をしたことで「御怒り」(=神罰)を買ったという認識をもっていたようです。二つ目は、宗教心が薄く、付和雷同しやすい「日本人の国民性」が露呈したことに対する不信感。侍従の徳川義寛に「こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ」としばしば語っていたそうです。

 状況の変化に応じてご都合主義的に、戦勝や皇室の護持や平和を熱心に祈り続けた昭和天皇。これに、著者が何度も指摘されているように、後期水戸学の影響のもと宮中祭祀が確立されるのは、明治になってからであるという歴史的事実を加味すると、天皇制の権威とは一体何であったのだろうと考え込んでしまいます。
 そして政策決定への強い意欲。「昭和天皇の軍事思想と戦略」において山田朗氏が指摘されているように、戦時中においては、「始まった作戦は仕方がないが、以後は自分の意図・方針を尊重せよ、という現状追認の論理、そしてその後にくる結果優先の論理」を実践する結果オーライの穏健主義者にして膨張主義者。戦後においても、首相や閣僚を呼びつけて内奏させ、それに対して下問する慣習をずっと続け、米国による沖縄の長期占領を望むというメッセージを米国国務省に伝えた昭和天皇。戦前・戦中・戦後を一貫して、皇室護持のために、政治的権力や発言力をふるいながら、皇祖神に祈り続けた彼。
 少しずつ鮮明な像が、私の頭の中で結ばれつつあります。そろそろ、この人物についての精緻な研究と冷静な評価が本格的になされていいと思います。

 ところで本書によると、今の天皇は昭和天皇を上回るぐらい、宮中祭祀に熱心だとのことです。一体、彼は皇祖神に何を祈願しているのでしょうか。
by sabasaba13 | 2008-05-11 09:08 | | Comments(0)
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