「からゆきさん」

 「からゆきさん」(森崎和江 朝日新聞社)読了。こうした素晴らしい本を出版してくれた朝日新聞社に敬意を表するとともに、絶版のまま放置していることには遺憾の意を表します。「新しい歴史教科書をつくる会」からの抗議がありそれに屈したのでしょうか。まさかね、でもありそうだなあ。
 からゆきさんとは、家が貧困のため海外出稼ぎに出た多くの女性たちのことです。(アメリカ大陸への出稼ぎは「あめゆきさん」) 「から(唐=外国)行き」が語源で、天草や島原の女性が多かったようです。すでに江戸時代から長崎の外国人貿易業者により彼女たちは妻妾や売春婦として東南アジアなどに行ったが、明治維新以降アジア太平洋戦争の敗戦までの日本の大陸進出・南洋開発活動に伴い、シベリア、満州、朝鮮から台湾、東南アジア、太平洋の各地に至る外地のあちこちに日本人業者による組織的売春業が展開されました。家計への仕送りのため密航する者もおり、総計万単位の数のからゆきさんがいたそうです。本書は、からゆきさんからの聞き取り、当時の新聞記事、史料を駆使しながらその実態に迫ろうとする労作です。と同時に、「自ら進んで出稼ぎに行った」あるいは「騙されて連れて行かれた」という単純な見方ではなく、彼女たちの複雑で豊な内面の襞に少しでもくいこみ、それをできるだけ理解しようという姿勢を筆者は常に崩しません。さもないと、からゆきさんは二度殺されてしまう… 一度は管理売春のおやじや公娼制をしいた国によって、二度目は私によって… 筆者の言です。

 なぜ島原・天草にからゆきさんが多かったのか。以下、引用します。
 ふるさとがあまりにもまずしいから、そしてまた、他郷をおそれぬ気質をふるさとがはぐくんでくれたから。さらにまた、冷えた他人の手をふところにいれて、あたためてやるようなやさしさを、その風土がはぐくんでくれたから。
 生産力の低い土地と、堕胎を許さぬ慣習(キリスト教の影響?)による人口圧力が原因の貧困。それに加えて、中国や朝鮮との交流や倭寇や水軍の活動という背景からか、異郷や異人を怖れぬ気質が育まれた風土。そして異性との性愛を不純とみることのない、むしろ性が人間としての優しさや暖かさの源であることを認め合うような伝統の存在。以上を筆者は指摘されております。よって、自分と家族を奈落から救うためのやむにやまれぬ行為であると同時に、彼女たちなりの夢をもって自らの意思で渡海した面も見逃してはならない。しかし彼女たちを待っていたのは、想像を絶する苦役でした。ある女性は、自分が二十歳になる姿を想像できなかったと回想されています。そして筆者が憤りをぶつけるのは、そうした彼女たちを悪用した斡旋業者や売春宿の経営者、さらには日本という国家です。後者に関しては、日露戦争を画期として、国家権力による管理と支配が強化されたと述べられています。その目的は…
 私は思う。「内地人の足を止むる方便」なればこそ、「海外醜業婦」を黙認しつづけ、韓国清国に移民保護法を適用せず、新領土に公娼制を必要としたのだと。
 日本の勢力がアジアに拡大し領土や植民地が増えるにつれて、多くの日本人がそこに移り住むようになる。彼らを慰めその地に根づかせるために、からゆきさんを黙認あるいは管理したのですね。
 近代日本の歴史をサクセス・ストーリーとしてのみ描こうとする歴史書をよく見かけますが、その時代の闇を一身に背負わされた存在に光を当てるのも歴史家の重要な責務だと思います。そしていわゆる「国益」とやらが、いかに多くの人を犠牲にした上で成り立っていることか。益富政助という方が「公娼制度廃止論」の中で臓腑を抉るが如き痛烈な一句をひねりだしています。
ひどい国娘の尻で国を立て
 また日本によって植民地とされ、さまざまな艱難辛苦をなめさせられた人々が、憎しみをぶつけるために彼女たちを買ったという事実も銘肝しましょう。憎悪をはらすために性交を強要される、からゆきさんにとっては最も心を傷つけられるおぞましいひと時だったと想像します。彼女たちのせいではないのに…
 かれらは家や土地を売り、山を越えて日本人の女を買いにくるのである。性欲をみたすためではない。もっと根ぶかい渇きをもって、おキミたちを苦しめた。そこには日本人への憎悪がむきだしだった。

 おキミはケナリの花を愛している。れんぎょうのことである。
 綾さん(注:おキミの養女)が世帯をもった庭には春ごとに鮮黄色の花がこぼれんばかりにひらく。それは朝鮮に春を告げていた姿さながら、ゆれる。おキミが愛しているので綾さんが植えたものであった。どこかの娼楼での想い出がまつわっているようで、ああことしも咲いたな、という。
 ある日綾さんは、外出さきから帰ってきて、一瞬立ちすくんだ。庭から火が出ていた。その二メートルをこえた大きな株に育っているれんぎょうの根もとに、紙をうずたかく盛って、おキミが火を放っていた。ぴしぴしと蕾が音を立てていた。おキミは枝先の黄の花をむしっては、草履で踏みつぶしていた。燃える紙片が飛び散った。
 あわてて水をかける綾さんすら目にとまらぬように、おキミは一花ずつむしりとり、朝鮮語でののしりながら花々を踏みつぶしつづけた。家族がみなではらってだれもいない午後、よろよろする脚で庭へでて、かの女はなににむかってなにを踏みつぶしていたのか。綾さんが抱くように引きとめると「ウェヌム、チャシキッ!」と叫んでふりはらったという。ウェヌムとは日本人の蔑称である。チャシキとはどういうことばなのだろう。
 思うに、「国益」のために女性を平然と犠牲にするという構造は変わっていません。たとえば福祉予算を徹底的に削減し、女性を家庭内に縛りつけてその肩代わりをさせる。「女性の品格」キャンペーンはその一環だとしか思えません。そして"売春"に対する認識の甘さも、根本的には変わっていないような気がします。本作に登場する綾さんは、著者にたびたびこう言ったそうです。 「身を売るとは被害だとよくいうけど、そうじゃないわ。身を売るってことはいちばん深い罪なの。…いのちにかえても、すべきことではない…」 海外への"売春"ツァーや「援助交際」、「ジャパゆきさん」の存在など、人間としてのモラルが問われていると思います。もちろん、日本人男性だけの問題ではないし、その背後には貧困という問題があること、そして"売春"のグローバリゼーション=現代における奴隷制という事態が進行しているのも重々承知しておりますが。でも、こうした人の尊厳を損なう行為は、明日からでもすぐに簡単にやめられますよね。
by sabasaba13 | 2008-05-13 06:14 | | Comments(2)
Commented by さっと at 2008-05-13 19:50 x
こんばんは。からゆきさんという言葉は、最近復刊された山崎朋子の『サンダカン八番娼館』で知りました。森崎和江さんが書いたものなら、よりいっそう興味がわきます。探して読みたいと思います。
Commented by sabasaba13 at 2008-05-15 19:38
 こんばんは。山崎氏の同著は未読ですので、ぜひ読んでみたいと思います。たしか栗原小巻+田中絹代出演で映画化されていたような記憶もあります。できればこちらも見てみたいですね。
 なお蛇足ですが、小生がよく利用している「日本の古本屋」というサイトからだと入手可能のようです。
http://www.kosho.or.jp/servlet/top
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