そう、本日はブルームスデーです。これまで「
ダブリンの市民」「
若き芸術家の肖像」と読んできましたが、いよいよ「ユリシーズ(全三巻)」(ジェイムス・ジョイス 丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳 集英社)に挑み、そしてつい先日、読み終わりました。蟷螂の斧であることは十二分に自覚しておりますが、蛮勇をふるい紹介したいと思います。
1904年6月16日、このたった一日に、文学青年のスティーヴン・ディーダラス(22歳)と、新聞社の広告取りでユダヤ人の血を引くレオポルド・ブルーム(38歳)と、歌手であるその妻モリー(33歳)が織り成す出来事を綴った小説です。ホメロスの「オデュッセイア」を枠組みで使用しているところから「ユリシーズ」というタイトルがつけられています。(主人公オデュッセウスの英語名)
訳されたお三方による詳細きわまる注釈を参考にしながら、毎晩、蝸牛のように読み進めました。はっきり言って、「意識の流れ」とか「神話的世界」とかよく人口で膾炙される特徴についてはよくわかりません。私が驚嘆したのは、その踊りまわり遊びまわる言葉の数々です。洒落、造語、合成語、冗談、詭弁、糞尿譚、ポルノ、歌詞の引用、羅列、雑学、謎々… これには、面白い素晴らしいと感ずる以前に、文字通り圧倒されました。さらに馴染の小説でまずお目にかかれない異様な文体。第十七挿話「イタケ」の教義問答、第十八挿話「ペネロペイア」における永遠に続くかのようなモリーの内的独白(句読点はほとんどなし)、そして圧巻は第十四挿話「太陽神の牛」における、古代英語からマロリー、デフォー、マコーレイから現代の話し言葉にいたる英語散文文体史のパロディです。これだけでも凄まじいの一語なのですが、これを日本語文体史のパロディ/パスティーシュ(古事記→王朝物語→井原西鶴→夏目漱石→谷崎潤一郎…)として訳した訳者諸氏の力業には恐れ入りました。
というわけで、己の非才ゆえでしょう、ただただ「言葉」に圧倒されたというのが正直な読後感です。しかし第三巻におさめられている丸谷才一氏のジョイス論「巨大な砂時計のくびれの箇所」を読んで、少々意を強くしました。
しかしどういふわけなのか、この言語遊戯的な要素についてはこれまであまり語られてゐない。読者はみんながまづ、この壮大で破天荒な言葉のいたづらの組合せに圧倒されたに決まつゐるのに、しかしそのことを言ふと幼稚とか単純とか思はれやしないかと恐れて、口ごもつてゐたのか。
この長編小説はまづ、いたづらの名手、言葉によるトリックスターにしか書けない、途方もなく花やかな無駄口の壮大きはまる組合せによつてわれわれ読者を驚かすのである。
まんざら間違った印象ではなかったのですね。「途方もなく花やかな無駄口の壮大きはまる組合せ」の一端にふれられただけでも読んだ甲斐があったというものです。さて次は「フィネガンズ・ウェイク」だ!
追記。本文にそった懇切丁寧な解説書『「ユリシーズ」の謎を歩く』(結城英雄 集英社)を座右に置いておき挿話ごとに同時進行で利用すると、けっこう役に立ちます。
蛇足。第三巻付録の「ジェイムズ・ジョイスの生涯」によると、彼は妻ノーラを伴い1904年11月に英語教師としてイタリア領ポーラの、翌年3月にはトリエステの語学学校ベルリッツ・スクールに赴任していたのですね。それがどないしたと言われると… NOVAがつぶれた後(授業料返せ!)、山ノ神がベルリッツにかよっているもので… ただそれだけ。それにしても一体彼はどんな授業をしていたのでしょうね、興味津々です。