「日本の行く道」

 「日本の行く道」(橋本治 集英社新書0423C)読了。他人の言葉を借りず、とにかく自分の言葉と頭だけで、徹底的に考えぬき、表現しぬこうとする橋本氏にはいつもいつも敬意を抱いております。本書は、教育・家・政治・経済など多様なテーマを対象に、「なんかへんだ」的な状況の原因を、権威によりかからず自分の頭で考えてみました、という内容です。氏の本を読んで、いつもほんとに凄いなと思うのは、いろいろな出来事や事件をきっちり考え抜いて関連づけ、しかもわかりやすい文章としてまとめあげる力量です。例えば…
 18世紀中頃のイギリスで起こった産業革命は、「物が足りないから、大量生産をして必要な物を作り出す」などという、しみったれた理由によるものではありません。商品を大量に生産すれば、必ずそこに「余る」という事態は出現するのです。「必要だから大量生産をする」は一時的なもので、「機械化して恒久的な大量生産システムを作る」というのは、「自分達が必要とする物を作る」というのとは違います。それは、「自分達が必要とする以上の物を作り出す」なのです。
 なんでそんな余分なことをするのか? 大量に作った物を売って「利益」を得るためです。必要があろうとなかろうと売りつける―「需要がなかったら、そこに需要を作り出してでも商品を売る」という、20世紀後半のマーケティング理論では当たり前になることが、産業革命によって起こるのです。明治になって近代化へ向かった日本は、「大量に作った物を売って利益を得る」あるいは、「利益を得るために大量の物を作る」という国際情勢の中に巻き込まれたか、あるいは「進んで乗り出して行く」ということになって、「経済戦争の時代」へ向かうのです。
 業革命には、「その結果、経済戦争を必須とする」という性格もあります。19世紀は帝国主義の時代で、「原材料の確保」と「マーケットの拡大」を実現するために、欧米先進国は自国の外に「植民地」を求めました。そこから「侵略戦争」という事態は発生して、日本もその目標になりかかりました。だからこそ日本は、その危機を逃れて、「近代化」へと向かったのです―そのことによって、「経済戦争の加害者」の側に立つのです。
 第二次世界大戦まで、この「経済の戦争」は「武力による戦争」の面を強くして、それがやがては「貿易戦争」の色彩を明確にして来ます。第二次世界大戦で「武力による戦争」に敗れた日本は、「武力による戦争」という手段を捨て、その結果として、「武力による戦争」の背後にある「貿易戦争」という大本に勝つのです。
 それは「戦争」だったのです。だからこそ私は、「もう“加害者”の立場を狙わなくてもいいんじゃないの?」と思ってしまうのです。「それが戦争であったればこそ、その勝者は“地球を壊す”という方向にも進んでしまう」と思って、「もうそんなことは、やめればいいじゃないか」と思うのです。
 うーん、産業革命以来の約250年の世界の歴史を、これだけ簡潔明瞭にまとめあげる力業、もう脱帽です。今、中学校や高校でどんな世界史の授業が行われているのかわかりませんが、もし昔のように受験に向けて人名や事件をひたすら暗記させるのだったら、もうやめちゃってこの一文を熟読させた方がよっぽど歴史的思考が身につきそうな気がします。いや、マジな話。政治学者の故丸山真男は、教師の最重要課題のひとつは、具体的なことを抽象的に思考する訓練を施すこと、即ち、出来事や事件を抽象思考に置き換える癖をつけさせることだと言ったそうです。そういう意味では、橋本氏は私にとって大切な教師の一人、これからもよろしくお願いします。
それでは、氏の軽妙にして奥の深い語りの数々を、ご堪能ください。
 この収拾のつかない争いをストップさせる方法は、一つしかありません。先進国が「先進国であることのレベル」を下げることです。「もういい。これ以上は危ない。もうみんな、余分な金持ちになることや、余分な便利を実現しなくてもいい。そのことを示すために、こっちが先んじてレベルを下げる。あんたらも、もうへんな頑張りをやめなさい」と言うしかないのです。

 「ファンド」というものが、二酸化炭素と同じくらい世界をおかしくする迷惑なものになっていることは、分かる人には分かっているはずです。そんな、「金をあちこちに動かして儲ける」などというヴァーチャルな金儲けばかりを考えずに、もっとカタギになって、「自分のところでいるものは自分のところで作る」という原点に帰った方が、世界は安全で穏やかなものになるのです。

 そういう(筆者注:官僚による)腐敗構造をどうすればいいのか? 話は簡単で、しかも解決法は一つしかありません。話だけなら簡単で、実際は(おそらく)非常に困難で、しかし、やっぱりその解決法は一つしかありません。「ご主人さま」が不在であることによって官僚の共和制が成立してしまっているのなら、そこに「ご主人さま」を登場させればいいのです。「任期」というものがあって、すぐにいなくなってしまう「ご主人さま」であっても、「ご主人さまは常に存在し続けている」と、官僚達に呑み込ませればいいのです。
 「ご主人さま」とは、すなわち、国民のことです。「民主主義」という言葉を見ればこのことは簡単で、国民が「ご主人さま」だからこそ、「民主主義」なのです。
 公僕達に鼻の先で笑われる程度の「ご主人さま」ではなくて、公僕達に敬意を払われるような「ご主人さま」になる―そのように、国民が成熟する以外、民主主義の生きる途はないのです。その点で、まだまだ日本の民主主義は不十分なのです。不十分というか、未熟なのです。だからこそ、「ご主人さま」の資格のない人間が、平気で「ご主人さま」気取りになっていた―それをそのままにして、「民主主義の未熟」は隠蔽されていたのです。

 古くなってしまったものに縛られる必要はありません。でも、それが「古いもの」になってしまうまでの間、その「古いもの」の中で蓄積された「経験」を投げ捨ててしまうのは、愚かです。重要なのは取捨選択で、いるものはいるし、いらないものはいらないのです。「取捨選択の重要」という単純な事実に気づかず、「進歩」という名の下に、我々は一切を投げ捨てて来た―それが「革命の時代」であり「理論の時代」であり「科学技術の時代」だった、ついこの間まで続いていた20世紀だったのです。「今までを再検討する必要がある」の一言の中に、実はこれだけの内容があるのです。

 今や世界は、「消費で経済を進めるか、消費で地球を壊すか」の二択になっています。「経済はピークを超えて大規模化し、それを消費が動かし、それが地球を壊す力になっている」という、いたって単純な関係性を頭に入れた方がいいのです―と、私は思います。

 「豊かさ」が強くなると、人の方は相対的に弱くなるのです。なぜ弱くなるかと言えば、「豊かさ」を手に入れた時、人は「豊かさ」を手に入れるために必要とした「あれこれめんどくさいことを考えなければならない」という制約を捨ててしまうからです。人が人であることを成り立たせる思考の「重大な一角」を放棄してしまう―その結果「人が弱くなる」になってしまうのは、当たり前のことだと思われます。
 さて、本書の中で、たった一つ、氏が考えることを放棄したこと、あるいはそういうポーズをとったことがあります。これは先生からわれわれに出された大事な大事な宿題ですね。怖いけれど考えてみましょう。
 「生産の拠点」をよその国に移されて、「働く」ということが成り立たなくなってしまった先進国の人間達は、一体「なに」で収入を得て、「消費生活を続ける」ということが可能になるのでしょう? こわいから、これは考えません。

by sabasaba13 | 2008-08-24 10:09 | | Comments(0)
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