2005年 07月 05日 ( 1 )

青森・岩手編(5):盛岡(02.9)

 今日は花巻から盛岡へ移動です。残念ながら小糠雨。とるものもとりあえず、石をもて啄木を追った渋民村へ。盛岡駅からバスで約四十分。ダンプカーが行き交う、何の変哲もないところです。さっそく石川啄木記念館を訪問。すぐわきに彼が通学し、代用教員として勤務していた渋民尋常小学校が移築保存されています。ここで彼は「日本一の代用教員」をめざして頑張っていたんだ。机が四つしかない小さな職員室に感無量。隣りには当時彼が下宿した民家も移築保存されています。1906(明治39)年から翌年の五月まで、啄木はここに住んでいました。この下宿で「雲は天才である」を書き、長女が生まれたことを知り、そしてこの下宿から北海道へ旅立ったのですね。感無量。(小樽函館の啄木物件めぐりは以前の記事をご覧ください) 記念館の展示もなかなか充実したものでした。帰郷したら、啄木がこの時期に書いた教育論「林中書」を読んでみよう。
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 バスで駅に戻り、乗り換えて「原敬記念館」へ。 原敬。政党政治家。岩手県生れ。新聞記者、外務省官僚、大阪毎日新聞社長を経て立憲政友会総裁。1918年首相となるが、21年政党の腐敗に憤った青年に暗殺される。この間、山県有朋を中心とする官僚勢力としたたかに粘り強く戦い続け、政党の勢力を飛躍的に強めた政治家です。官僚や軍人の弱みを的確につき、無理をせず、時には大胆に、しかも相手の逃げ道も用意しておく。「政治は可能性の芸術」といいますが、それを地で生きた男。私、尊敬しています。「富と貴とは卿等の取るに任す、難題と面倒とは乃公に一任せよ」 彼の言です。ちなみに、戊辰戦争で敗れた東北諸藩は「白河以北一山百文」と嘲られ蔑まれ苦難の道を歩むわけですが、原敬は「一山」という号を名のり東北の名誉回復に尽力しました。なかなか充実した記念館ですよ、ここは。帰りに大慈寺にある彼の墓所によってきました。遺言により、爵位や官位は一切刻まれていない「原敬墓」というシンプルな墓名。雨降りしきるなか、合掌してきました。

  わけ入りし霞の奥も霞かな  原敬
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by sabasaba13 | 2005-07-05 06:15 | 東北 | Comments(0)