2006年 02月 28日 ( 1 )

「マルチチュード」

 「マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義(上・下)」(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート NHKブックス1041~42)読了。知的能力不足がたたり「<帝国>」(以文社)は数十ページを読んで挫折し、傷心の日々を送っていたのですが、本書はどうやら読み通せました。一般の読者を意識して、できるかぎり平易な用語や語り口を採用したようです。やれやれ、やはりそうでなくちゃ。世界の今と未来を語る意欲作を、一部の研究者・知識人だけで独占するのは勿体無い。構成もわかりやすいものです。第一部「戦争」では<帝国>についての概観、第二部「マルチチュード」ではそれに立ち向かう人々の動き、第三部「民主主義」ではこれからの展望と希望について述べるという三部構成です。
 
 まず<帝国>とは何か? 過去の歴史に見られたような、ある強大な国家が他地域を征服したり植民地にしたりして、権益を拡大する動きとは違います。核/中心となる存在が複数あり(ex.強大な国民国家、グローバル企業や資本、IMFやWTOといった超国家的機関…)、それらがネットワーク状に結びついて、彼らの利益に合致する国際秩序を維持・管理するというのが、ネグリ&ハートが定義する<帝国>です。そしてこの国際秩序に異を唱える動き(イスラーム主義もその一つだと思いますが)に対しては、人権や民主主義の名の下にこれを暴力的に押さえ込む。よって戦争の形が、国民国家vs国民国家ではなく、現行の国際秩序を維持したい権力と、それを脅かす暴力の対決となります。これは戦争というよりも、地球を舞台とする内戦ですね。低強度の軍事活動と高強度の警察活動が渾然一体となり、国境という壁を超えてくりひろげられます。ということは、<帝国>の権力や暴力を正統性するには、人権・民主主義の擁護と、国際秩序の維持という大義名分が欠かせない。(人権や民主主義の定義や内実は、もちろん<帝国>が決定します) いいかえると人権・民主主義・国際秩序を脅かす敵が必要不可欠です。
 <帝国>の暴力を正統化するには、敵と無秩序とが恒常的に存在することが必要である。
 なるほど、アメリカ政府が9・11を事前に探知していたが何ら手を打たなかったという説や、安全保障理事国が武器の生産と輸出を制限する気配が全くないという事実も、納得できます。
 そしてマルチチュードとは何か? 複数を意味する“マルチ”と状態を意味する接尾詞“チュード”(ex.ソリチュード)を組み合わせた造語なのでしょうか。その意味するところは、<帝国>に脅かされるすべての人々と考えていいのかな。労働者や人民という表現を使うと、一つの大きなまとまりへと統合され、しかも主婦や不法移民が排除されてしまいます。それぞれの特異性や多様性(ジェンダー・人種・宗教…)をそのままにしながら、そうした差異をなくすのではなく、そうした差異が問題にならない世界を実現しようとする人々。そしてそうした差異(秩序)を固定・維持しようとする<帝国>に抗うため、ともに行動する人々。核/中心をなる組織や機関をもたず、ネットワーク状に結びついた人々。
 マルチチュードが目指すものは何か? 恐怖と不公正、貧困、自由の欠如をもたらす<帝国>を廃絶し、自由と平等からなる多様な関係にもとづく全員による全員の支配という、地球規模での民主主義を確立すること。
 今とは違う、より良い、より民主的な世界が可能であることを常に忘れず、そうした世界を待ち望む自らの欲望を育んでいくことが何より重要である。マルチチュードとはその欲望の表徴なのだ。
 そして群知性(人間は一人のときより多数のほうがより知的能力が高まる)を生かして、民主主義を実現するための新しい武器を発明すること。アリストファネスの『女の平和』で、主人公のリュシストラテが男たちに戦争をやめさせるためにセックス・ストライキを提案したように、暴力を伴わずかつ有効な武器を。

 ふうっ… 誤読もあるでしょうし、きわめて拙劣な要約ですが、私は以上のように受け取りました。具体的な提言に欠けるし、魅力的だが楽観が過ぎる夢物語だと批判するのは簡単です。しかし今われわれに必要なのは、未来への希望を抱かせてくれる、こうした魅力的な<物語>だと考えます。ナショナリズムという小さな<物語>に包まれて、ドイツやイタリアで日の丸を振り回し、アジアに強気(アメリカには卑屈)な小泉首相を支持するより、よほど生産的ではないでしょうか。また、これが夢・理想論だとも言い切れません。1999年にシアトルで開かれたWTO閣僚会議に対し、反グローバリゼーションを掲げた巨大な抗議運動や(インターネットで輪が広がり、環境保護団体・労働組合・学生などが参加し共闘したネットワーク状の運動)、イラク戦争を食い止めるために世界中で沸き起こった反戦集会やデモなど、微弱かもしれませんが<帝国>に異を唱える動きは確実に起こっています。
 著者も述べているように、古代都市国家という小規模な場における民主制を、国民国家という大きな場に根付かせようと奮闘した18世紀の思想家たち、そしてそれを実現した19世紀の人々の例もあります。地球規模の民主制だって不可能ではないと信じましょう。ある詩人もこう言っています。「君はぼくを夢想家と言うかもしれない、でも決してぼくは一人ぼっちではないんだ。ぼくたちと手をつなごう、そうすれば世界は一つになれる。」

 最後に、気になる一文がありましたので紹介します。以下引用。
 社会的領域ではすべてを<公>にして政府が自由に監視し管理できるようにする傾向があり、経済的領域ではすべてを<私>にして所有権の対象とする傾向があるということだ。
 以前、日本では<公>=おおやけ(大きな家)、つまり権力者が関与する領域で、本当の意味での「公共」という考え方は希薄であると言いましたが、こうした事態が世界的にも進行しているのですね。ネグリ&ハートは<公><私>に対して、<共>という概念を重要視しています。これはコモンの訳語ですが、「共同のもの・共通のもの・共有のもの」という意味です。これを解体・阻害し<公>(政府が監視・管理できる領域)や、<私>(私的所有権の対象となる領域)に組み込もうとする動きが日本および世界で進行しています。日常的に頻繁に使われみんなが違和感なく受け入れている言葉である「セキュリティ」は前者の事態を、「民営化」は後者の事態を指しています。人種やジェンダーや国籍に関係なく「みんなのもの」を<公>と<私>から守ろうとする存在がマルチチュード、と言ってもいいのかな。
by sabasaba13 | 2006-02-28 06:04 | | Comments(2)