2007年 03月 06日 ( 1 )

「戦争の記憶」

 「戦争の記憶 日本人とドイツ人」(イアン・ブルマ ちくま学芸文庫)読了。以前にも拙ブログで紹介しましたが、わずか214ページで日本の近現代を適確に鳥瞰した名著「近代日本の誕生」の著者です。勝者の正義のために歴史の被告席に立たされた日本人とドイツ人が、過去にどのように向かい合ってきたのか、あるはこなかったのか。過去を神話や定説で隠蔽せず、戦争体験者や現場(ボン、東京、アウシュビッツ、広島、南京、シュトゥットガルト、長崎、バッサウ、花岡)を徹底的に取材して、戦争責任の問題について考察した重厚なルポルタージュです。いかにアブノーマルだった国がノーマルになりうるか、数百万の死者をもたらした二つの破綻した国家が、過去をいかに克服してよりよい未来に向かうのか、著者は感情的・宗教的な断罪でも擁護に陥ることなく、真摯にこのテーマに迫ります。その際に、真実を把握するためには、対立し、討論し、解釈し、再解釈する作業、要するに終わりなき対話が必要であるという著者の考えに共感します。
 えてして日本に比べて、ドイツでは国民あげて戦争責任を重く深く受け止めていると私など考えがちですが、本書を読んでドイツにおいてもさまざまな立場があるのだということがよくわかりました。ナチス時代について、口を閉ざす者、美化する者、宗教的な情熱で徹底的に断罪する者… ただおおむね日本よりは本気で戦争責任問題に向き合おうという社会的な合意は確立されていると思います。
 そして日本においてこうした取り組みが弱いのは、被害者イメージが強いためではないかと主張されています。国民は軍部指導層に「だまされた」、ひたすら平和を願っていたのにだまされて戦争に誘い込まれた、という自己像ですね。その象徴が「臣下にだまされながらも善良で平和を愛する」というイメージを身にまとった昭和天皇の存在です。昭和天皇が無実であることは、日本人が無実であること。この問題に関して感情的な反発が起こり、時として暴力がともなう(ex.本島長崎市長への襲撃)のは、昭和天皇=日本人はだまされていただけで、本当は善良で平和を愛していたのだ、というイメージを守るための必死の試みなのでしょう。これに対する伊丹万作(映画監督、十三の父、大江健三郎の義父)の大変厳しい批判が紹介されています。以前、拙ブログに彼の「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」という言葉を載せたのですが、全文を引用します。臓腑を抉られ、脳髄を鉄槌で叩かれるような文章です。
 だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無自覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
 そして戦争責任から逃避するためのもう一つの手段が、日本の文化のユニークさを称揚する態度とは矛盾するのですが、「どこの国でもやったことだ」と開き直ること。こうした論理的に一貫性のない無責任な態度を、著者は幼児性と表現しています。以下、引用します。
 このような幼児性は、日本だけだとは言わないまでも、日本に顕著な文化的特性なのではないか、とつい考えたくなる。戦後の日本人の幼児性には多少参る。日本中どこへいっても、可愛い子ぶりたい女性たちがさえずり、大通りにはディズニーランドふうの店が並ぶ。「テレビタレント」たちがふざけ散らす。ダークスーツのサラリーマン軍団が地下鉄の吊革にぶらさがって、少年漫画を読みふける。昔の軍歌がいまだに泣き上戸に愛好され、大人はいつまでも乳離れできない。
 マッカーサー将軍は、日本は十二歳だと言ったが、私には、十二歳でありたがっている国に思える。もっと幼くありたいのかもしれない。なにも心配なく、責任や画一化を押しつけられることもまだない。あの黄金時代にとどまりたいのではなかろうか。
 論点は多岐にわたり、とても全部を紹介することはできません。読後の充実感は申し分なし。真摯に理性的に戦争責任問題に向き合おうと考える際には、必読の書でしょう。お薦めです。なお氏が考えるノーマルな国とはどのような国か。
 ノーマルな国とは、その国のリーダーの抑圧から人々を守る政治の諸制度ができている国のことです。ノーマルな国とは-必要なときは武力をもって-自国を守り、外国の制圧を受けた国を助けることができる国のことです。ノーマルな国とは、自分たちのリーダーを自由な意志で選ぶことができ、過去と現在についての情報の自由があり、討論の自由がある国のことです。
 幼児性から脱却してノーマルな国に近づこうと努力する人間に育てるのも、教育の重要な役割だと思います。でも安倍伍長の教育改革案を見るかぎり、ふたたび家畜的な盲従心を子どもたちに刷り込もうとしているように思えてなりません。

 本日の一枚です。
「戦争の記憶」_c0051620_6182413.jpg

by sabasaba13 | 2007-03-06 06:19 | | Comments(0)