2007年 07月 22日 ( 1 )

「ここが家だ」

 「ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸」(絵ベン・シャーン 構成・文アーサー・ビナード 集英社)読了。ベン・シャーンという名を聞いただけで、胸がときめきます。たしかはじめて彼の絵に出会ったのは高校生の時でした。何という絵だったのか今では忘れてしまいましたが、印象は強く心に残っています。なんという力強い線! その後、サッコとヴァンゼッティ事件など社会的な事件・問題をテーマとする画家であること、第五福竜丸事件に衝撃を受け「ラッキー・ドラゴン・シリーズ」という連作を描いたことなどを知りました。しかし彼の画集は絶版、一度展覧会に行ったきりで、しばらくご無沙汰をしていた次第です。先日、たまたまNHKの番組が彼をとりあげてくれ、旧知の師に再会したような懐かしい気持ちになりました。画集は再販されているかなと、インターネットで調べたところ相変わらず絶版。しかしそのかわりにこの絵本のことを知り、さっそく注文しました。
 人の怒りや悲しみや喜びを、時には繊細な時には時には逞しい線で描ききるベン・シャーン。ビナードの文章もいいですね。タイトルの「家」とはおそらく地球をさしているのでしょう。放射能が地球という一つの家を汚染することに対する警告を、まるで言葉で世界を変えることはできると信じているかのように、静かに語りかけています。
「久保山さんのことを わすれない」と
ひとびとは いった。
けれど わすれるのを じっと
まっている ひとたちがいる。…

わすれたことに
またドドドーン!
みんなの 家に
放射能の 雨がふる。

どうしてわすれられようか。
畑は おぼえている。

波も
うちよせて
おぼえている。

ひとびとも
わすれやしない。
 そう、この二人が絵と言葉で訴えているのは放射能の恐ろしさなのです。そして放射能によって愛する家族を奪われた人々の悲しみ。この悲しみには、文化や人種や宗教による違いなどないでしょう。あらためて核兵器の実験と使用および生産、そして原子力…もとい核発電の放棄を、私たちは目指すべきだと思います。二酸化炭素を排出しないということで、ふたたび核発電が脚光をあびていますが、とんでもない。以前書いたように、安全性とコストにおいてあまりにも問題が多すぎる物騒な代物です。
 それと関連して、私たちは放射能に対する認識を改めるべきではないのでしょうか。久間元防衛大臣の発言を批判する際に、「唯一の被爆国…」という修辞をなさる方がけっこうおられました。少々うがった見方をすると、侵略戦争をした加害者であったという心理的負債を軽くするために、核兵器を投下された唯一の国=究極の被害者であったという立場を意識的/無意識的に主張するための物言いではないのか。しかし被爆という言葉よりも、人為的につくられた放射能を浴びるという大きな文脈の中で現実を捉えるべきなので、被曝という言葉を使うべきだと思います。さすれば、日本は唯一の被曝国ではありえません。核実験で死の灰をあびた太平洋の島民やアメリカ兵、チェルノブイリに住むロシア人、再処理工場の付近に住むイギリス人やフランス人、ウラン鉱山で働く労働者、劣化ウラン弾の残骸とともに暮らすイラク人。そして微量の放射線を出す放射性物質が体内にとりこまれ体内の組織に沈着し、アルファ線、ベータ線などを長時間放射しつづけた結果、体細胞が傷つけられて慢性の疾病をゆっくりと進行させ、また生殖細胞が傷つけられて子孫に遺伝障害を残す、いわゆる内部被曝のことに思いを馳せましょう。こうした放射性物質は風や水とともに世界中に拡散しています。つまりすべての国が被曝国です。
 そしてこうした放射性物質をつくりだす国はすべて加害者、もちろん日本もその一員です。核発電への依存、まもなく稼動する再処理工場、米軍による核兵器の持ち込み、そして核兵器の使用を視野に入れつつある米軍に深く深くとりこまれ利用されていく米軍再編、いや日米軍事再編。放射能の恐怖をもっとも激烈な様態で経験した国のするべきことではありません。

 ベン・シャーンとアーサー・ビナードの叫びと囁きに耳を傾けましょう。どうやら私たちは忘れてしまったようですが、畑も波も放射能の恐ろしさをおぼえています。そしていつの日か"沈黙の春"がやってくるのかもしれません。それを食い止めるための時間はまだあるのでしょうか。

 追記。今回の柏崎刈羽原発の事故でも、わすれるのを、じっと、まっているひとたちがたくさんいるでしょう。そうは問屋が卸しません。RCサクセションの「サマータイム・ブルース」を聴きながら、絶対に忘れまいという思いを新たにしています。
by sabasaba13 | 2007-07-22 08:14 | | Comments(0)