2008年 07月 06日 ( 1 )

「競争やめたら学力世界一」

 「競争やめたら学力世界一 フィンランド教育の成功」(福田誠治 朝日選書797)読了。2004年12月、OECD(経済協力開発機構)の「生徒の学習到達度調査」(PISA2003)において、日本の子供たちの読解力が8位から14位へ落ちたことが、いわゆる「学力低下論争」の発火点になったようです。そして学力世界一となったのがフィンランド。本書はフィンランドにおける教育を取材し、その学力観や教育観、そして学校教育や教師の現状を伝えてくれる好著です。まず日本の教育について、著者はこう喝破されます。
 …日本では、いまだに子どもは競争させられ、試験のために勉強し、試験が終われば忘れてしまうような知識を大量に詰め込んでいる。高校や大学に入学することが目的となり、入学したとたんに勉強しなくなるというような有様である。しかも、点の取りやすい教科の勉強に精を出している。そのうえこのような体制が、教師や学校を競争させることでより強化されようとしている。受験でしか通用しないような多くの知識を、日本でしか通用しない偏差値によって測っているというのだ。
 うーむ、日本で学校教育を十数年間受けた経験から、前半部分については同感です。後半についても、報道を見る限り、文部科学省が競争原理を津々浦々にまで強要している現状から納得します。これをデッド・エンド(袋小路)と認識し、そこからの突破口を探るための貴重なケース・スタディとして、フィンランドの教育について知り考えてみよう、というのが著者の意図です。
 まず確認しておくべきは、OECDが行っているPISAテストは、教科の知識の習得よりも、社会に出て使える実践的能力=コンピテンシー(competency)を重視したものだということです。簡単に言えば、問題を効果的に分析し、推論し、コミュニケーションする能力、これから何ができるかという能力、実際的な能力ということでしょうか。その背景には、EUが、「教える教育」から「学びを支援する教育」へと教育観を変えつつあるという状況があります。EUの拡大によって発生した、人口増加と移住の開始、高い失業率、社会的差別の危険といった課題の解決策として、従来のような「国民意識」形成に替わるものを教育目標にしようとしているのですね。例えば、2000年のリスボンEUサミットで、「2010年までにヨーロッパを、最も競争力があり躍動的な知識基盤経済にする」という目的を設定していますが(「リスボン戦略」)、この「知のヨーロッパ」は、アメリカや日本に対抗した総合的な大戦略でもあるようです。つまりこれからの『知識主導型社会』では、自ら課題を見つけ考え解決しようとする能動的な市民が必要となるという見方です。それに応じて教師の役割は、単なる知識の伝達者ではなく、総合的に能力を育てる支援者、子どもたちの創造的で批判的な学びを支援することとされました。こうした教育改革の流れの最先端がフィンランドなのですね。
 よって、一生涯かけて学ぶための力、いわゆる学習力を社会に出る前につけさせることがフィンランドにおける学校教育の目的となります。そして「低学力」が成人になってから失業を生むとして、「底学力層の底上げ」を重視します。例えば、成績不振者や特別なニーズのある子どもは、親、担任・担当教師、特別支援教師の三者が協同して対処します。「落ちこぼし」をつくってしまえば、「そんな生徒のために大変な苦労」が待っているという社会的な合意がそれを支えているのでしょう。アメリカが、国内の「低学力」層を切り捨てて、「高学力」層は世界中から優秀な頭脳を移民労働力として補充しているのとは対極ですね。ユヴァスキュラ大学のヴァリヤルヴィ教授の言葉が、胸に突き刺さります。
 「もしあなたがたが競争を強調されれば、成績不振者は負け組になり、溝は広がるでしょう」 つまり彼は、教育のせいで社会が分裂してもよいのですかと問うたわけである。
 PISAテストでフィンランドの子供たちが高得点を上げた理由はここにありそうです。学ぶための力をすべての子どもたちに保障する。その目的は目先の高得点ではなく、将来的により良く安定した社会を築くため。
 具体的には、次のような方針が貫かれているそうです。①平等な教育。16歳までは選別をしない教育、学ぶ気になればいつでも学べる学校教育制度。②競争などで学習を強制せず、子どもが自ら学ぶことが基本。習熟度別編成をしない、グループ学習や教え合いを重視し、マイペースで学べるための工夫。③教師を専門職として信頼し、教師が働きやすい職場を作る。国の教育管理権限を最小限とし、自治体・学校・教師に教育の権限を委譲。教育行政は、教師を援助することに徹する。学力調査などは学校の支援のために使われ、出来・不出来を公表しない。④権利としての教育を福祉としての教育が包み込む。小学校から大学まで授業料は無料、高校までは教材や学用品、給食、通学費などは無料。高校生や大学生の下宿代には補助金を出す。
 ん? これは今、日本の教育行政が行っている施策とは全く正反対なのでは。学校間・教師間・生徒間の競争を煽って学習を強制し、国が教育権限を最大限に持ち、教師への統制を厳しくし、教育関係予算を削って受益者負担を増やす。教育行政関係者はおそらくフィンランドでの視察をしているはずだと思うのですが、いったい何を見てきたのでしょう。いやもしかすると、公教育を破壊して、一部のエリートと大部分の物言わぬ底辺労働者育成するため、意図的にフィンランドとは対極にある教育政策を実施いているのかもしれません。嘘だと言ってよ、ジョー!

 そして著者の重要な指摘が、今日の学力問題の根源が、「自己教育力」「総合学習」「生きる力」などを盛り込んだ「ゆとり教育」にあるというものです。実はその狙いは、EUやフィンランド同様、社会に出て使える実践的能力=コンピテンシー(competency)を育てるということにあったのですね。大きな違いは、日本の教育行政には、子どもたち全員がしっかりとした学力を身につけるという視点がなかったことです。低学力の子どもは放置して、その分の労力を高学力の子どもたちへ振り向けたわけです。当時の教育課程審議会会長・三浦朱門の信じ難いお言葉です。
 学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです。
 私見をつけくわえれば、社会的な討論・合意というプロセスを経ず、学校制度・入試制度などの大きな枠組みは維持したまま小手先だけの部分的な改革であったという問題点も指摘できます。
 やれやれ、と溜息をついていてもはじまりません。教育についてより多くの人が真摯に語り合う中にしか突破口は見いだせないでしょう。その際に、もう一つの選択肢を示してくれる重要な書、お薦めです。

 追記。民主主義を子どもたちに実践させる取り組みとして、次のような教育が小学校でなされているケースもあるとのことです。たとえば、ある公園に遊具がほしいと子どもたちが考えつくと、クラスで決め、生徒会に持ち込んで提案として作り直し、毎年五月には市議会の議場を借りて市内生徒大会を開いて、各校の提案を審議する。そこで決まれば実現する。子どもたちは大人と同じ社会のプロセスを踏むことで、民主主義の仕組みを学んでいくのですね。なるほど、日本で民主主義が根づかないわけだ。

 追記その二。こうした教育観をより深く理解するために「競争社会をこえて」(アルフィ・コーン 法政大学出版会)も必読の書ですね。あわせて推薦いたします。
by sabasaba13 | 2008-07-06 07:35 | | Comments(0)