2008年 09月 25日 ( 1 )

「おくりびと」

 先日、山ノ神に誘われて映画「おくりびと」を見てきました。うん、これは面白い映画でした。主人公は職場を失ったチェリスト、妻とともに郷里・山形に帰って職探しをしますが、意図せず納棺師になってしまいます。遺族の前で遺体の死化粧をして棺に納めるという仕事ですね。はじめはとまどっていた主人公も、やがて上司の仕事振りや遺族のさまざまな思いにふれるにつれ、この仕事の重要な意義に気づくことになります。故人に最高の敬意を払いながら美しく装わせ彼岸へ送り出すことによって、遺族たちの悲しみを癒し昇華させていくという大きな意義に。やがて彼は自信を深めこの仕事に誇りをもつようになり、それまで偏見や無理解に満ちていた妻や友人の見る目も変わっていくことになります。“死”を無意味なものにしてはいけない、さもないと“死”に至る過程である“生”も無意味なものになっていまうから、うまく言えなのが歯がゆいのですがそういうメッセージを受け取りました。思うに人間というものは、死者を手厚く弔うことによってバトンを受け継ぎ、どうにかこうにかここまでやってきたのではないかな。そしてこの映画の奥深さは、その連鎖を生物すべてにまで押し広げていることです。生き物と食べ物に関する映像やエピソードがいろいろなシーンにちりばめられていることがその証左でしょう。飛来する白鳥、川を遡上する鮭、河豚の白子、干し柿、フライドチキン、米沢牛… 主人公の上司は「死ぬ気にならなきゃ食うしかない。困ったことにな」と呟きます。他の生き物を食べる=死に至らしめることによってのみ、生き物は生存できる。人間もそうした大きな輪っかのほんの一部にすぎない、そして“死”に対してできうるかぎりの畏敬の念をもたないと人間はこの大きな連鎖から外されてしまう。その行き着く先は… 今にして思うと、冒頭のシーンが印象的です。近所の人からもらったタコが突然動き出す。とても食べる気がしない主人公と妻はそのタコを海へと放つが、もう死んでおり波間に漂う。生きるとは命を引き継ぐことだという厳粛な事実を見ようとしない二人をうまく表現していました。そして食べられずに海へ捨てられたタコの無意味な死も。

 ぐだぐだととりとめもないことを綴りましたが、それができるのも本作のもつ豊穣な多義性によるものだと思います。役者の演技もいいですね、内面の成長ぶりを誠実に演じきった主人公役の本木雅弘、飄々とした重厚さで主人公を導く上司役の山﨑努、陰翳のある演技で二人を支える同僚役の余貴美子、妻を演じた広末涼子の平板な演技には違和感を覚えましたが、これはこれで“生”と“死”の連鎖に気づかないわれわれの凡庸さを代理させるための意図的なものかもしれませんね。そしてドラマ全体を包み込む山形の自然と四季の移ろいの美しさも特筆ものです。挿入された楽曲を演奏するチェロ・アンサンブルも過不足なく、ドラマの進行を盛り上げます。それにしても映画の設定上、主人公をチェリストにしたところに監督の何かしらの意図を感じます。生き物の声にもっとも近い音質と音域を、そして生き物の形にもっとも似た形状をもつ楽器として選んだのかな。だとしたらチェリストの末席を汚す一ぼんくらプレーヤーとしては嬉しい限りです。

 モントリオール世界映画祭グランプリ受賞も納得ですね。Memento mori(死を想え)という警句を見事な映像で表現した佳作、お勧めです。
by sabasaba13 | 2008-09-25 06:15 | 映画 | Comments(0)