2009年 02月 13日 ( 1 )

「狂気について」(その一)

 「渡辺一夫評論集 狂気について」(大江健三郎・清水徹編 岩波文庫)読了。氏について、スーパーニッポニカ(小学館)に簡にして適確な紹介文があったので、抜粋して引用します。
 渡辺一夫(1901-75)、仏文学者、評論家。東京生まれ。東京帝国大学仏文科卒業。旧制東京高等学校教授を経て1962年退官まで東大文学部でフランス文学を講じた。ラブレーやエラスムスの翻訳、研究、およびルネサンス・ユマニスム研究に画期的業績をあげる一方、太平洋戦争の前後を通じてユマニスムの根源に分け入ることによって得られた深い学識と透徹した批評眼をもって日本社会のゆがみを批判した。とくに寛容と平和と絶えざる自己検討の必要を説き、狂乱の時代に節操を堅持した知識人として若い世代に深い感銘を与えた。
 彼の評論の中から、ラブレーとルネサンス関する評論、政治や社会に関する随想、本と読書をめぐる随想、考証風物語、そして自らの略歴を語る随想を選んで収めたのが本書。これだけ良質で、滋味にあふれ、知性と好奇心を刺激され、そして寸鉄人を穿つ評論集にはなかなかお目にかかれるものではありません。エラスムスとラブレーからユマニスムの精髄を学び取り、それを己の思想の芯として鍛え直し、第二次世界大戦や戦後における世界と日本の狂信・狂気を冷徹にして強靭な知性と温もりのある心情で批判し続けた稀有なる人物です。ヒューマニズム(ユマニスム)という言葉が死語になりつつある悲しくもやるせない昨今ですが、そもそも何を意味し伝えようとする語なのか。氏は、人間の機械化から人間を擁護する人間の思想であり、割切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って、懸命にその解決を求め続ける精神である、と述べられています。(p.164) また、弱肉強食を浄化する意志であるとも。(p.195) そう、資本主義世界経済/金融というシステム・制度の機械・奴隷と化して弱肉強食的状況をつくりだしている現在のわれわれにこそ必要であり、このおぞましい世界から脱却するための指針としなければならぬ思想・精神のことだと衷心から思います。本書の一語一語、一文一文が、私を、揺さぶり、勇気づけ、励まし、叱咤してくれました。あらためて言葉の持つ素晴らしい力に感銘を受けるとともに、その力を感じ取る感性・知性を磨かねばと思います。いや贅言はやめましょう。この喜ばしくも厳しき豊穣な知の世界を、一人でも多くの人に伝えたいと思います。たくさんの引用ですがご海容ください。

 追記。先日、たまりにたまった本を、「泣いて馬謖を斬る」、古本屋に引き取ってもらおうと持参したところ、断られてしまいました。店主曰く、線が引いてあるので売り物にならないとのこと。うーむ、私が買う方の立場だったらあまり気にならないのになあ、とすごすごと重い鞄を抱えて店を出ました。しかしどうも割切れない気持ちが残ります。そして本書の次の一文を読み、我が意を得たり、と膝を打ちました。「古本などを買ってきて読むとき、まえの所有者だった人々が感動して線を引いた個所に、我々も同じく感動するとき、ふしぎな精神的なつながりが、この荒れすさんだ人の世にも、我々の気づかぬあいだに、もうけられていることを感ずる。(p.249)」 そうか、他者との精神的なつながりを喜ぶことなど眼中脳中になく、本を単なる商品と見なす人が増えているということか。
 あの十六世紀(足利・織田・豊臣時代)において、特定の個人は別として、日本は世界に向って何を求めていったか? それに比べると、あの頃のヨーロッパは驚くべき好奇心を以て刻々と広く深くなって行く新しい地平線を眺めていた。そして、その近代社会の発展のために、飽くことのない貪欲な植民地獲得競争もし始めたが、その間賞賛すべき人間的自覚を持ち、この地平線に出没する他の「人間」の発見を行っていたことは忘れてはなるまい。(p.80)

 モンテーニュは、この「人喰人」と対決しながら、既成のヨーロッパ的「人間」観の枠をめりめりと破壊するし、その時までヨーロッパ人の精神を支えてきた一切の信念の中核に思いがけぬ批判の光を当ててしまうのである。こういう人物を出した地域が文明国と称せられるのであり、こういう人物を他より多く且つ先立って輩出せしめた地域が先進国と言われねばならない。(p.83)

 シャルル九世に引見された三人の「人喰人」が奇妙に思ったこと。(彼ら土人は、お互いに、他人のことを我が半身と呼ぶ習慣があるのだが)この国フランスの人々の間には、一ぽうに様々な安楽に充ち溢れている者があると思っていると、それらの人々たちの半身は、赤貧と飢餓のために瘠せ衰えて、彼らの門前に食を乞うていることだ。しかも、かくまでに窮迫したこれらの半身が、よくもかかる不正義を堪え忍んで、富める連中の喉首を絞めようとも、その家に放火しようともしないことは、実に不可思議である。(p.90)

 不可思議なこと、判らぬことは、判るように納得できるように努むべきであり、一切は美しく良き生のためにある。この幼稚な教訓が、ヨーロッパ・ルネサンスから、我が日本に対して、二十世紀になっても贈らねばならぬように思われるのは、それは、最近の日本の行動及びそれを強行した言うに言われぬ超思想の故である。(p.94)

 夢中になって斬り合いをしている人々を戒め、その行為を中止させるために有効な方法は、側にいて、こうした行動が愚劣であることを語り続け、聞く耳あらば聞けと願い、再び同じ愚挙が再現せぬように叫び続ける以外に何があろうか? 自らも剣を握って戦う二人の間に入れというのか? エラスムスは剣を握ることができないのである。剣は人間を斬り得るからである。(p.103)

 現実が、人生が、太古の昔と変りなく、争闘によってしか進行しないという信念を人々が護持する限りは、また、同じ正義と幸福とを求めながら、理解や譲歩や協力や自己変革を拒否して、ただ非情な物理法則が一切の対立の唯一の解決の道であり、人間の善意は常に妄想であると考えている人が圧倒的である限りは、エラスミスムは孤独であり無力であろう。しかし、エラスムスの死後、人間の歴史のなかには、モンテーニュ、スピノーザ、ディドロ、ヴォルテール、レッシング、シルラー、カント、トルストイ、ガンジー、ロマン・ロランという偉大な名前が残されており、それらがエラスミスムと無縁ではないということを、我々は知っている以上、エラスミスムの与える悲しみが今直ちに絶望に変るテンポはややゆるめられるという幻想が、今なお残されている。(p.106)

 エラスミスムの獲得は、何よりも先になされねばならぬ人類的な責務にすらなったように見える。極めて強力な兵器が、対立する集団によって用いられ、しかもその争闘が、一、二の部落や一、二の国の間に止まらずに、人類全体を狂信のなかに叩きこむ危険があり得る以上、エラスミスムを今こそ守り育てぬ限り、人類の荒廃絶滅に近い状態によってしか新しい悲劇は閉じられまい。(p.113)

 要は、我々は、「天使になろうとして豚になりかねない」存在であることを悟り、「狂気」なくしては生活できぬ存在であることを悟るべきかもしれません。このことは、天使にあこがれる必要はないとか、「狂気」を唯一の倫理にせよとかいう結論に達すべきものでは決してありますまい。むしろ逆で、豚になるかもしれないから、豚にならぬよう気をつけて、なれないことは判っていても天使にあこがれ、誰しもが持っている「狂気」を常に監視して生きねばならぬ、という結論は出てきてもよいと思います。(p.130)

 平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが、行動の準則とならねばならぬわけです。そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。ただし、錯誤せぬとは限りません。しかし、常に「病患」を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。(p.131)

 いくら大戦争になろうとも、逞しいいわゆる強い人々だけが生き残ることは確実だとすれば、なおさら、戦争は、回避されねばなりますまい。なぜなら生存競争弱肉強食の法則を是正し、人類の文化遺産の継承を行うのが、人間の根本倫理と考えるからです。(p.140)

 尻に火がついている時、一切の高尚な文芸談も学術研究も一時は中止しても、ともに火を消さねばなりません。そして、ともに放火者が何者であるかを見きわめねばならぬのです。これが見きわめられた時、真の和解があるでしょう。(p.148)

 我々は専門研究めいたものを持っていると、その専門に縛られてくるものである。体力や時間の有限な我々のことであるから、うっかりすると専門研究の奴隷となり、機械となってしまうようになる。いわゆる専門以外のこと―実際はあらゆる人間的事象には脈絡があるはずなのであるが、―専門以外のことは、「自分には判らない」「自分の知ったことではない」「自分には興味がない」と考えやすくなるものである。申すまでもなく、ある専門研究に携わってそれに熱中すればするほど、専門外の知識を吸収する機会を常に与えられ続けるものではない。しかし、自分の専門研究が人間文化において占め得る位置について常に反省し、専門外のことにも耳を傾けてこそ、その人は専門の奴隷になるずにすむし、機械にならないですむのではないかと思っている。(p.150)

 科学・機械文明の利得は、正に人類の宝であろうが、機械は人間のために作られたものであり、人間は機械の奴隷になってはならぬはずである。この簡単な事実を忘れない人々が真の文明人であり、機械の奴隷となった文明人は、この事実を忘れ去っているが故に増上慢に陥り、とんでもない愚行を演ずるのである。(p.157)

 我々は、「人類は今までどれだけのことをしてきたか」「人類はこれからどうせねばならぬか」を、二つの重大な関心事として常に持っているはずであるし、「土から出て土にかえる」人間の分限も自覚しているはずである。否自覚していなければならない。科学・機械文明の利便の蔭にある呪詛してしかるべき病弊は、この自覚の喪失ということである。(p.158)

 カピタリスム(※資本主義)というものは、人間が考え出したものであり、初めは人間の利便幸福のためにあった。もし、これが多くの人間を不幸にするようなところまで硬化してきた以上は、進んでこの制度を変えるか棄てるかせねばならない。人間のくせにこの制度の奴隷となり機械となって、この制度の必然的結末とも言える戦争まで起すことは、笑うべき愚挙である。(p.159)

 ヒューマニズムとは、人間の機械化から人間を擁護する人間の思想である。割切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って、懸命にその解決を求め続ける精神である。(p.164)

 この暴力らしいもの、即ち、自己修正を伴う他者への制裁は、果して暴力と言えるのであろうか? 十字路の通行を円滑ならしめるための青信号赤信号は暴力でないし、戸籍簿も配給も暴力ではない。人間の恣意を制限して、社会全体の調和と進行とを求めるものは、契約的性格を持つが故に、暴力らしい面が仮にあるとしても、暴力とは言えない。そして、我々がこうした有用な契約に対して、暴力的なものを感ずるのは、この契約の遵守を要求する個々の人間の無反省、傲慢あるいは機械性のためである。例えば、無闇やたらと法律を楯にとって弱い者をいじめる人々、十字路で人民をどなりつける警官などは、有用なるべき契約に暴力的なものを附加する人々と言ってもよい。こうした例は無数にある。用いる人間しだいで、いかに有用なものでも、有害となり、暴力的になるように思う。このことは、あらゆる人々によって、日常茶飯のうちに考えられていなければならぬことであろう。(p.198)

 寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。(p.199)

 人間の歴史は、一見不寛容によって推進されているようにも思う。しかし、たとえ無力なものであり、敗れ去るにしても、犠牲をなるべく少くしようとし、推進力の一つとしての不寛容の暴走の制動機となろうとする寛容は、過去の歴史のなかでも、決してないほうがよかったものではなかったはずである。(p.199)

 寛容なローマ社会が、なぜキリスト教に対して不寛容であり得たかというに、それは、ビュアリによれば、ローマ社会の寛容を脅すキリスト教の不寛容を抹殺して自らの寛容を保とうとしたからである。(p.201)

 僕は、ソヴィエット・ロシヤの国内政策の酷薄さを様々な論考や著書によって教えられ、ロシヤの人間化を切に願っている者だが、こうまで酷薄になってしまったのは、革命以来、ロシヤを取り巻き、ロシヤを叩き潰そうとした周囲の国々の責任にもなるのではないかしらと、時々思うことがある。窮鼠が成長したら猛虎になるかもしれないからである。追いつめられ続けた人間が、どれほど猜疑心に駆られ、やさしい心根を失うかは色々な例で教えられるからである。(p.203)

 現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々は、それを激化せしめぬように努力しなければならない。争うべかざらざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである。歴史は繰返す、と言われる。だからこそ、我々は用心せねばならぬのである。しかし、歴史は繰返すと称して、聖バルトロメオの犠牲を何度も出すべきだと言う人があるならば、またそういう人の数が多いのであるならば、僕は何も言いたくない。しかし、そんなはずはなかろう。そんな愚劣なことはあるはずはなかろう。また、そうあってはならぬのである。(p.210)

 読書というものは、写真のフィルムを現像するようなものだ、本が現像液で読者は感光したフィルムだという説を、僕は持っている… (p.243)

 このような疑問が、物を調べているにつれて、ますますふえてゆくのは、楽しいことです。私のような老残教師の老後の楽しみは、全く無限になると思うからです。(p.260)

 私は、日本が明治時代にひき始めたびっこをまだひき続け、方向は異なっても、何かの方向に雪崩落ちないとどうにもならぬような気がしてならぬ。平和になったからと言ってだらけ切り、自由になったら責任は忘れられ、民主主義とやらになったら、数と衆だけが羽振りをきかせ、権利が重んぜられると義務が棚上げにされ、自制を伴わぬ消費や、懐疑を知らぬ信念や、歴史を恐れない行動や、人間が自分の作った制度・組織・思想・智識・機械・薬品を使いこなせず逆にそれらに使われている例が、日毎に見られるように思う。これは、日本が一夜にして「文化国家」に早変りした当時から見られ始めた現象であるが、「経済大国」なるものに「変身」した現在、一段と顕著になってきている。何か大切なことが忘れ去られているような感じであり、バベルの塔の物語や『ヨハネ黙示録』に想いを馳せることが多い。私に残された日々は、我々が忘れ去ったものが何であるかを突きとめることに費されるより外にいたし方あるまいが、仮にそれを突きとめられても、所詮手遅れのような気もしている。生者必衰は生物界の掟だし、栄えた家は必ず衰えるものだし、国家国民の興亡も避けがたいからである。(p.305)

by sabasaba13 | 2009-02-13 06:52 | | Comments(0)