2009年 04月 08日 ( 1 )

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫)読了。マネーゲームに文字通り狂奔する昨今の世界や日本を見るにつけ、あらためて考え込んでしまいます。ぶっちゃけて言えば「手段を選ばず、結果や未来について考慮せず、ひたすら金を増やし続けようとする」という思考・行動様式がこのゲームの本質だと愚考しております。まるでやくざなばくち打ち、と言ったら博徒のみなさんに失礼かな。今、人類が抱える巨大な三つの宿痾、環境破壊・経済格差・軍事紛争も、つきつめればここに起因するのではないでしょうか。金を儲けるためなら、どんなに環境が破壊されても、どんなに貧しい人が増えても、どんなに人が殺されようと、知ったこっちゃない… もしこの惑星を後に続くものたちに十全なかたちで受け渡す気があるのなら、真剣に考え行動しないと奈落はもう眼前です。そのために、もう「マネーゲーム」などという事態を矮小化するような表現はやめませんか。まるで一過性の伝染病みたいに聞こえてしまいます。そうではなく、これこそが、いわゆる先進国を中心にここ二百数十年の間に作り上げてきた資本主義の本質であるという視点をもつべきではないでしょうか。(どういうわけか「資本主義」という言葉を最近耳にしなくなりましたね) イデオロギーにふりまわされず、資本主義というシステムの歴史・特質を冷静に怜悧に考察すべき時だと思います。となると避けては通れない古典中の古典が本書。実は大学時代に、大学生だったら読まなくてはという根拠のない動機に押されて一読したのですが生半可な理解しかできませんでした。その頃よりは己が多少なりとも進歩しているはずだと信じて、蟷螂の斧をふるいました。
 まず大前提として、できるだけ多くの貨幣を得ようとする心情や行動は、歴史上決して自明のものではないというのが筆者の主張です。いやそれどころではなく、そうした行為は道徳的なものではないとさえ考えられていたということです。
 貨幣の獲得を人間に義務づけられた自己目的、すなわち天職とみるような見解が、他のどの時代の道徳感覚にも背反するものだということは、ほとんど証明を要しない。(p.82)
 習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願う簡素な生き方が理想であったということです。それでは際限のない利潤追求というエートス(人間の血となり肉となってしまった社会の倫理的雰囲気)がなぜ生まれたのか? 彼は、カルビニズムやピューリタニズムなどの禁欲的プロテスタンティズムの倫理が、その精神的支柱となったと論じます。カルバンらの主張では、善行によって人は救われるのではなく、すでに神によって誰が救われるか決められている(予定説)。よって信徒は、「救いの確かさ」の確証を、懸命に働くことによって得ようとします。解説の中で訳者の大塚久雄氏が、あらゆる他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまって(禁欲)、そのエネルギーのすべてをゴールインのために注ぎ込むマラソンランナーにたとえられていますが、卓抜な比喩ですね。そしてタイムが早くなればなるほど、「救いの確証を得た」「神の栄光を増した」という至福に恍惚となることができる。より早く走るためには、トレーニングや生活習慣を徹底的に合理化しなければならない。ヴェーバーは下記のように述べています。
 「聖徒」たちの生活はひたすら救いの至福という超越的な目標に向けられた。が、また、まさしくそのために現世の生活は、地上で神の栄光を増し加えるという観点によってもっぱら支配され、徹底的に合理化されることになった。―しかも「すべてを神の栄光の増さんがために」との立場を、彼らほど真剣に考えたものはかつてなかった。(p.197)
 ところが、彼らのそうした行動は意図せずして、合理的産業経営を土台とする資本主義の社会的機構をだんだんと作り上げていく結果となりました。やがてそれが鋼鉄のようなメカニズム(鉄の檻)と化して、マラソンランナーのような禁欲的行動を外側から諸個人に強制するようになります。そして宗教的・倫理的な意味は消え失せ、貨幣の獲得のみが職業における有能さの結果であると信じ、徹底的に合理化された思考・行動によって競争相手を打ち負かし利潤を増やそうとする人間類型が登場することになります。手段を選ばず、敗れた競争相手のことを顧みることもせず、徹底的に合理化した練習によってひたすらタイムを早くすることのみに人生を捧げるランナー… ヴェーバーは次のような恐るべき予言で本書を結んでいます。
 こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」(letzte Menschen)にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。(p.366)
 マネーゲームに狂奔し、「これほど楽して大きく稼いだ人間はいまだかつていない」と自惚れる昨今の末人たち・無のものに、もしヴェーバーが生きていたらどのような眼差しを向け何と語りかけるでしょう。悲しげに「金儲けだけに専念して意味のない競争をするのはやめなさい」と言うのではないかな。こうした人間類型に対して、彼が本書で掲げているのが「ファウスト的な人間の全面性」という表現です。「ファウスト」について論じる能力はとてもありませんが、「人間の全面性」という言葉がこの奈落から脱け出すためのポイントになりそうですね。
by sabasaba13 | 2009-04-08 06:14 | | Comments(0)