2010年 05月 12日 ( 1 )

会津・喜多方編(7):アウシュヴィッツ平和博物館(09.8)

 実は以前に、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所とダッハウ強制収容所(ミュンヘン近郊)とアンネの家(アムステルダム)を訪れたことがあるので、正直に言って展示品の少なさにはすこしがっかりしました。参考までに紹介します。まずはダッハウ強制収容所の写真です。
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 次にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の写真です。
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 ただ、ていねいな解説と写真資料が十分にそれを補っていると思います。何よりも、いまだにわれわれをじわじわと圧殺しようとしているアウシュヴィッツ的状況に思いを馳せることができる、たいへん貴重な得がたい博物館だと思います。これをくぐれるような弱く小さな人間が物のように廃棄されてしまう高さ120cmの棒がそこいらじゅうに置いてある世界ですね。この状況のポイントは、善良なる一般市民が、なぜ大量殺戮を黙認・容認したのか、あるいはそれに加担したのか、ということだと思います。以前にも書評で紹介した「戦争の世紀を超えて」(森達也・姜尚中 講談社)の中で、姜氏はこう語っておられます。
 我々はこの時代に生きていて、価値がないから抹殺するということはやっていないけれども、でもどこかに価値のないやつが生きていても仕方がないという考えが、人々の意識に巣くっていると思う。つまり憎悪でこれは敵だ悪だというのとは別に、もう一つ、価値がないから生存する必要がないという考えがあると思います。で、僕はその価値がないから抹殺するメカニズムは、ナチスでなくても資本主義の淘汰によってそうされているんじゃないかと思えるのです。…例えば、市場の機械的なメカニズムでね。人間が手を加えなくても、そのメカニズムは働いている。それは誰かが手を染めなくても淘汰のメカニズムとして存在するわけです。その最大の場所がアフリカになっていて、ナチスみたいにむだだから消そうとしなくても、何もしなきゃ死んじゃうという状態。
 そう、地球全体がアウシュヴィッツと化しつつあるのではないか。そして死と向き合わせの過酷な労働に駆り立てられる多くの囚人たちと、それを監視しつつ優雅な生活を満喫する一部の看守たち、人類がこの二つのカテゴリーに分けられているのではないのか。それを選別するのは、身体検査でも高さ120cmの鉄の棒でも人種でも宗教でもなく、市場、要するにお金をもっているかいないかそれだけ。自分の心の中に、こうしたアウシュヴィッツ的なるものが存在するのかしないのか、それを繁茂させる土壌と栄養分があるのかないのか、それを確認するためにもぜひ一人でも多くの方に訪れてほしい博物館です。貨車から外へ出ると、柔らかな陽光と新鮮な空気にほっとしました。貨車が乗ったレールの先を見やると、どうやら途中で途切れているようです。さて、われわれが乗っている貨車が走るレールは、どこに向かっているのでしょうか。

 本日の三枚です。上の二枚はアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の写真です。
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by sabasaba13 | 2010-05-12 06:26 | 東北 | Comments(0)