2010年 09月 10日 ( 1 )

五島・対馬・壱岐編(39):城山公園(09.9)

 丁重にお礼を言ってバスから降り、すこし歩くと河合曽良の句碑があります。「行々て たふれ伏とも 萩の原」 「奥の細道」の最中、腹痛のため芭蕉と別れることになった曽良が、加賀の山中温泉でつくった句です。これに応えて、笠に書いた「乾坤無住 同行二人」という文字を消さないといけないと悲しんだ芭蕉は「今日よりは 書付消さん 笠の露」という句をつくります。その後、曽良は幕府巡見使として壱岐を訪れて病気となり、ここ勝本で没したそうです。時は1710(宝永7)年5月22日、享年62歳。句碑のとなりには、曽良の出身地である諏訪市から贈られた、御柱祭の際に立てられた神木が屹立していました。なお近くには、きれいな公衆トイレがありました。
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 そして石段をすこし上ると、石垣がわずかに残されている勝本城跡です。安土桃山時代の山城で、朝鮮出兵の際に名護屋城の支城、そして朝鮮への補給路の要衝として秀吉が築いたものです。
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 こちらには展望台があり、眼下に広がる勝本の町並みや島々、コバルトブルーに輝く海を一望できました。いやあ絶景、絶景。
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 付近をうろつくと、ここにも曽良の「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」という、九州への旅立ちの前に江戸で詠んだ句碑がありました。その近くにあるのが「珠丸慰霊碑」、先述したように1945(昭和20)年10月14日、大陸からの引揚げ者や復員軍人を乗せた珠丸(たままる)が厳原港を出航し博多に向かう途中、日本海軍が敷設した機雷に触れてこの勝本沖で爆沈したという事件です。合掌。対馬の厳原であの碑と出会わなければ、何のことやらわからなかったでしょうね。やはり知識があると旅も興味深いものになります。さきほどの展望台から見晴らしたきれいな海のどこかに沈んでいるのかと思うと、言葉もありません。ふと考えたのですが、非戦闘員を殺傷する可能性がある機雷は、国際法やジュネーブ条約などで禁止されていなかったのでしょうか。また現在ではどうなのでしょう。また、米軍によって日本近海に大量にまかれた機雷の撤去は気の遠くなるような困難な作業だったと思いますが、どのような組織がどのようにして行なったのでしょう。いずれもすごく気になりますね。ご教示いただければ幸甚です。
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 すぐ近くにあった下りの山道には「行きゆきて…」という小さな表示がありました。さきほどあった曽良の句碑へと続く近道ですね。これも知識がないと見過ごしてしまうでしょう。違う山道をしばらく下り、案内標識に沿って行くと河合曽良のお墓がありました。合掌。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2010-09-10 06:29 | 九州 | Comments(4)