2011年 09月 27日 ( 1 )

「レイシズム」

 「レイシズム」(小森陽一 岩波書店)読了。「差別はいけない」ということはもちろん分かっていますし、差別をあからさまに肯定する人もそれほど多くはないでしょう。しかし、始めに結論ありきで話が終わってしまい、「なぜ人は差別をするのか」、そのメカニズムについて怜悧で精緻な分析はあまりなされていないのが現状ではないでしょうか。私が勉強不足で知らないだけかもしれませんが。そして差別をつくりだすメカニズムを理解しないかぎり、これからも永劫に差別が再生産されていくのではと思います。本書は、自他の「差異」「優劣」を捏造する差別というメカニズムに真っ向から斬り込んだ力作です。ただ小生が浅学なためもあり、十全に理解できたかどうか自信はありません。書評などと言えるレベルのものではありませんが、とりあえずやってみましょう。
 まず狭義の人種差別主義者について筆者は次のような定義を紹介されています。「他者の生物学的差異に準拠し、それを利用してこの他者を苦しめ、そこから利益を得ようとする者だ。これらの差異に基づく特徴を集めて、人種と名づける統一した集合とみなすことができると信じる者だ。他者の属する人種は不純で、憎悪すべきもの、自分の属する人種は純粋で、称賛すべきものとなる」(p.3) その際に、ある程度良心的な人間が、そうした罪を犯したと知りながら、なんとかして自己正当化をはかり、その罪の意識から逃れ、忘却して楽になりたい、と感じる屈折した心性が「人種差別主義」を欲望させるとされています。そして人種の「価値づけ」においては、否定と肯定が対をなす構造になっている。たとえば有色人種の中に見出される劣等性は、自動的に白人の優秀性を証明するという関係におかれます。肯定的な価値と否定的な価値、つまり差別とは言葉の問題なのですね。ただその言葉が、人間の脳による思考を停止させ、動物の脳の選択にまかせる方向づけをすることにより、人間の暴力性をも常に煽動してきます。それではどうすればレイシズムを克服できるのか。筆者は、自明のこととされている肯定/否定の価値評価を伴った言葉に対して「なぜ?!」という問いを発しつづけ、その耐久性を検証することが重要だと述べられています。「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)ではなく、「我疑う、ゆえに我あり」ということですね。さらに筆者は、生物学的差異による人種主義だけではなく、「新しい人種主義」にも注意を喚起されています。以下、引用します。
 「フリーター」「ニート」「ワーキング・プアー」の現状を分析するほとんどの言説は、それ自体「新しい人種主義」の言説の拡大再生産を行っているだけだ。なぜなら、こうした諸概念を生み出すような格差社会の構造をもたらした、新自由主義と新保守主義の政策に対する批判と、その政策を行使した政治指導者とグローバルな資本の責任を明らかにしない限り、それらの言説は、「オリエンタリズム」の言説と同じ構造を持つからだ。
 つまり対抗軸を示そうとしない、マス・メディアによる現状分析の言説には、その言説の発信者と受信者の間に、〈われわれ〉は「フリーター」「ニート」「ワーキング・プアー」ではない、という共犯関係が常に結ばれているのだ。確かに、情報産業化したマス・メディアの内部に身を置く発信者たちは、すべて「勝ち組」に属している。けれども、受信者となる私たちは、はたしてそうだろうか。現状分析の言説を商品として消費し、自分はそこまでひどい状況ではないという徴候を一つでも見つけ出し、必死で〈われわれ〉の中に居残ろうとする欲望は、自らが置かれている現実に対する思考停止と分析停止を再生産しつづけることにしかならない。
 「新しい人種主義」が隠しているのは、「超過搾取され」ている「プロレタリアート」の現実だ。永井荷風が『悪感』におけるテクストの運動で示したアイロニーの戦略を行使するために必要なのは、「私は超過搾取されつづけているプロレタリアートだ」という立脚点から思考を始めることだ。(p.125)
 これは鋭い。レッテルを貼り付ける側にまわれば、自分はレッテルを貼り付けられる劣った存在ではないという安心感を得られ、現実の問題を思考し分析することができなくなってしまう、ということでしょうか。これは肝に銘じなければ。
by sabasaba13 | 2011-09-27 06:15 | | Comments(0)