2011年 11月 29日 ( 1 )

隠岐編(5):美保神社(10.9)

 それでは同じ石畳の道を歩いてタクシーへと戻りましょう。それにしても、石畳をしきつめた古い街並みって意外とないものですね、古い街道だったらけっこうあるのに。先日たまたま読んだ「黒船以前 パックス・トクガワーナの時代」(中村彰彦・山内昌之 中公文庫)で、イスラーム学の泰斗・山内昌之氏が次のように述べられていました。「(※公衆便所、公衆浴場など)都市の水準として、とくに江戸は世界でも最先端に近い位置にあったのではないか。ただ何が遅れていたかとあえていえば、舗装です。道路の舗装技術に関しては、ヨーロッパやイスラーム世界にはかなわない。(p.123)」 うーむ、これは気づかなかった、卓見ですね。なおその理由として、中村氏は馬車がなかったこと、山内氏は石材の不足をあげられています。たとえ馬車がなくても、多雨地帯の日本、ぬかるむ道を歩く不便を考えれば石畳の必要性は高かったと愚考します。私は後者の説をとりますね。でもそれとは別問題として、なぜ日本には馬車がなかったのでしょう??? 水運が発達していたため、山がちの地形であったため、雨が多かったため、などと愚考しますがいかがでしょう。意外と雇用機会を減らさないため、一種のワーク・シェアリングだったりして。
 ついでと言っては失礼ですが、美保神社にも寄ってみましょう。おお、これは一風変わった造りですね。大社造を横に二つ並べた本殿、そして数多の柱が支える巨大で重厚な拝殿、ちょっとパルテノン神殿を彷彿とさせます。解説によると、船庫を模しているのだとか。祭神は、右殿が大国主神の子の事代主神、左殿が大国主神の后の三穂津姫命だそうです。鳥居の脇には何やら長い木材が置いてありましたが、近づいてみると「奉納 折れ梶」とありました。ちょっと数奇な物語なので、紹介しましょう。1896(明治29)年、水晶と但馬牛を積んでウラジオストックに向かっていた寶榮丸が、能登沖で暴風に襲われ梶を折られてしまいました。乗組員は髪を切り、美保大神に祈願すると、船首の波間に大鯛があらわれ、船はその鯛の泳ぐ方向へと漂流していきました。やがて暁になると、前方かすかに見える山影は美保岬、そう助かったのですね。その感謝のしるしとしてこの折れた梶を奉納したそうです。1896年といえば三国干渉の翌年、大日本帝国臣民はこぞって「臥薪嘗胆」、帝政ロシアへの復讐の念に燃えていたと先入観を抱いてしまいますが、こうした民間の交易は間断なく続けられていたのですね。政治は政治、商売は商売、ま、当たり前の話ですが。それにしても水晶と但馬牛という交易品が興味深いですね。後者は種牛なのでしょうか、彼らの安否も気になるところです。また「髪打切り」という所作については、最近読んだ「大黒屋光太夫(上)」(吉村昭 新潮文庫)に次のような記述がありました。「海が荒れ狂って船に覆没の危険がせまった時には、髷を切って神仏の御加護を仰ぐ仕来りがある」(p.31) 江戸時代の風習がいまだ生きていたのでしょう。"僧形になる"という象徴的な意味合いがあるのかもしれません。
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 鳥居をくぐると、目の前は海、「やきいか」を売る露店があり、地元の方がイカを干していました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-11-29 06:17 | 山陰 | Comments(0)