2012年 07月 12日 ( 1 )

瀬戸内編(4):ロシア人墓地(11.3)

 それでは、ロシア人墓地へと向かいましょう。ここまで自転車に乗ってきて気づいたのが、歩道と車道の間に段差がなく、たいへん走りやすいということです。これには行政の見識を感じますね。路面電車も健気にごろごろと走っているし、松山が好きになりそう。さすがは四国、「へんろみち」という石の道標に感心し、幅が広くすいている歩道をすーいと気持ちよく走っていると…キーッ。
c0051620_615404.jpg

 あるお寺さんの山門の中が妖しく輝いています。おっこれは見事な枝垂れ桜、ほぼ満開です。さっそく自転車を門前に置き、しばしプチ花見。
c0051620_61618.jpg

 そしてすこし走ると急峻な坂道となり、自転車から下りて押すはめとなりました。幸い数分ほどで、車道のすぐ脇にあるロシア人墓地に到着です。整然と並んだ数十もの石の墓標、そして「ワシリー・ボイスマン大佐之墓」という大きな墓標と「日露友好のかけ橋」という記念碑が並んでいました。こちらにあった解説板によると、日露戦争当時、政府は全国に29ヵ所のロシア兵捕虜収容所を設けましたが、まず最初に開所となったのがここ松山。多いときで四千人を超える捕虜が収容されていましたが、傷病などで98名が死亡し埋葬されたそうです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」からの引用によると、日本政府は未開国でないことを世界に知ってもらうために戦時捕虜を優遇し、中でも松山の収容所がロシア兵には有名で、彼らは投降する時に「マツヤマ、マツヤマ」と連呼して日本軍陣地に走ってきたそうです。帝国主義戦争の犠牲者である兵士たちの冥福を祈り、合掌。なお、「米国海軍無名戦士之墓」という墓標もあり、「昭和二十年八月九日午前九時余土町及び同時に松前町塩屋沖に於て艦載機にて戦士す」と記されていました。長崎に原子爆弾を投下する際の哨戒の任務にあたっていたのでしょうか。
c0051620_6162121.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_6163826.jpg

c0051620_6165595.jpg

by sabasaba13 | 2012-07-12 06:17 | 四国 | Comments(0)