2012年 12月 17日 ( 1 )

2012年衆議院選挙

 やれやれ、衆議院選挙の結果は自民党の圧勝とあいなりました。これで核(原子力)発電依存へと戻って深刻な事故による国家滅亡の可能性が高まり、憲法を改悪しアメリカが"敵"と勝手に決めつけた国にその走狗となって攻撃を加え、消費税増税によって多くの人々の暮らしは破綻し格差社会はますます拡大・固定化され、国家権力に従順で批判する力のない騙されやすい人間へと育てる教育が徹底されるのか、やれやれ。でも多くの方々はそれを望んでいるのですね、やれやれ。あるいは「民主党がだめだから自民党」という、単純かつ無思考な判断の結果なのか。ただこの結果が"民意"として、これからの自民党・公明党の政治を支えることは銘肝しましょう。「汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来となって現われべし」という漱石の言を噛みしめながら。

 ふと「辺境・近境」(新潮文庫)の中で、村上春樹氏が述べられていた一文が脳裡をよぎりました。長文ですが、近現代の日本を理解する上で重要な意見だと思いますので紹介します。
 それ(※ノモンハン事件)は期間にして四カ月弱の局地戦であり、今風に言うならば「限定戦争」であった。にもかかわらずそれは、日本人の非近代化を引きずった戦争観=世界観が、ソビエト(あるいは非アジア)という新しい組み替えを受けた戦争観=世界観に完膚なきまでに撃破され蹂躙された最初の体験であった。しかし残念なことに、軍指導者はそこからほとんどなにひとつとして教訓を学びとらなかったし、当然のことながらそれとまったく同じパターンが、今度は圧倒的な規模で南方の戦線で繰り返されることになった。ノモンハンで命を落とした日本軍の兵士は二万足らずだったが、太平洋戦争では実に二百万を越す戦闘員が戦死することになった。そしていちばん重要なことは、ノモンハンにおいても、ニューギニアにおいても、兵士たちの多くは同じようにほとんど意味を持たない死に方をしたということだった。彼らは密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。そしてこの「効率の悪さ」を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない。
 戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。我々は日本という国家を結局は破局に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した。その結果我々はたしかに近代市民社会の理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の良さは社会に圧倒的な繁栄をもたらした。
 にもかかわらず、やはり今でも多くの社会的局面において、我々が名もなき消耗品として静かに平和的に抹殺されつつあるのではないかという漠然とした疑念から、僕は(あるいは多くの人々は)なかなか逃げ切ることができないでいる。僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている。でもそうなのだろうか? 表面を一皮向けば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。僕らの抱えているある種のきつい密閉性はまたいつかその過剰な圧力を、どこかに向けて激しい勢いで噴き出すのではあるまいか、と。(p.167~9)
 国民を名もなき消耗品として扱い続けて自民党が、それに対する反省の弁もなく、選挙による支持を受けて政権に復帰したわけですね。密閉性はますますきつくなりそうです。

 さて、日本を取り戻した、言い換えれば日本を私物とすることに再び成功した自民党、そして安倍伍長、まずは何から始めるのか注視しましょう。ま、福島の子どもや若者たちは見殺しにされ、安保体制は現状通り堅持され沖縄の方々を苦しめ続けるのは目に見えていますが。
 それにしても清沢洌が生きていたら、「イグノランスの深淵は計りがたい」と再び日記に書くだろうなあ。
by sabasaba13 | 2012-12-17 06:19 | 鶏肋 | Comments(0)