2013年 01月 09日 ( 1 )

山形編(35):鶴岡(11.8)

 それでは入場しましょう。まず正面に鎮座ましますのが旧鶴岡警察署庁舎、竣工は1884(明治17)年です。ベランダ・車寄せ・ペディメントなどの洋風意匠と、堂々とした入母屋造・瓦屋根が破綻なく共存しているのは、いい仕事ですねえ。明治の擬洋風建築として一級品です。なお事務所として使用されているため内部を見学することはできませんでした。右手奥には、旧西田川郡役所があります。1881(明治14)年に、県令三島通庸の命により建てられました。中央に屹立する時計台が印象的な擬洋風建築です。内部は資料館になっていて、戊辰戦争に関する資料などが展示されていました。ほお、薩摩藩の挑発に苛立った幕府が、江戸薩摩藩邸の焼き打ちを命じたのが庄内藩だったのですね。その後、庄内藩は奥羽越列藩同盟に加わりますが、会津藩の敗北によって大勢は決し、1868(慶応4)年9月に致道館で藩主酒井忠篤は、官軍参謀黒田清隆に降伏謝罪したそうです。厳罰を覚悟していたところ、西郷隆盛の計らいで寛大な処分となり、以後庄内はたいへんな西郷贔屓になったとのこと。現在でも、鶴岡市は鹿児島市と兄弟都市として交流を深めているそうです。姉妹都市というのはよく耳にしますが、兄弟都市というのは珍しいですね。ウィキペディアで調べてみると、"特殊な例として宮崎県、鹿児島県、沖縄県が関連する提携では、力強さを希求してか「兄弟都市」と称されることがある"とありました。"男おいどん"的発想なのかもしれません。そして御隠殿(ごいんでん)へ、1863(文久3)年に藩主の隠居所として建てられた大名屋敷です。
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 中に上がってびっくらこいたのは、数多の釣竿が展示されていることです。なんだこれは… 解説から、一部抜粋をして紹介いたします。
藩政時代、庄内藩は尚武の気象のうすれてゆくのを憂え、大いに磯釣を奨励したといわれている。(略) 鶴ヶ丘城下から庄内浜の釣場まで三里か、四、五里(12キロから20キロ)の道を長い竿をかついて夜中から歩き、山越えをするのだから自然体力、胆力の鍛錬になるわけである。したがって単なる遊びではなく、釣った獲物のことを「勝負」といって競うのである。また釣に行って、自分の不注意で海に落ち怪我などすると減石されるというきびしい処分を受けた。(略)
このようなことから使用する釣竿(庄内竿)も他地方のものと異る独特のものが作られた。その主な点を挙げると 1.多くは当地方特産の苦竹を用いていること。2.ほとんどが延竿(一本竿)であること。3.他地方の竿は竹の皮をとって糸をまき、漆を塗って補強しているが、庄内竿は生地のままを生かし塗りをかけたりはしていない。4.竹の根の美しさを生かしている。5.竿を作る人は、藩士自身が作り、その出来の善し悪しを、名刀を誇りにしたように名竿を自慢にした。
 やはり旅をするのはいいものですね、こんな面白い逸話に出会えるなんて。鍛錬や競争のために釣りを強要されるのは気が滅入りますが、人殺しの訓練よりはよほどましです。世界中のすべての人々が武器を捨て、かわりに釣竿をふるう時代が到来する事を切に祈ります。魚にとってはたまったものではないでしょうが。展示されている竿の根元をしげしげと眺めると…なるほど、竹の根をうまく生かそうとした努力と美意識がよくわかります。神は細部に宿り給う。

 本日の三枚、上から一枚目が旧鶴岡警察署、二枚目が旧西田川郡役所です。
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by sabasaba13 | 2013-01-09 06:17 | 東北 | Comments(0)