2013年 07月 28日 ( 1 )

『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』

 『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(布川了 随想舎)読了。先日、足尾鉱毒事件の史跡をめぐって佐野周辺と足尾を歩き回ってきたのですが、その際にたいへん重宝したガイドブックです。まず史跡めぐりの心構えとして銘肝したい一文が「あとがき」にありましたので、紹介します。
正造は、見学者の眼と心を次のように分類した。
以上の毒野も、ウカト見レバ普通の原野ナリ。涙ダヲ以テ見レバ地獄ノ餓鬼ノミ。気力ヲ以テ見レバ竹槍、臆病ヲ以テ見レバ疾病ノミ。
 これは、死を覚悟して直訴しようとする三日前に、甥の原田定助に書き送った書簡の一節である。このガイドブックを手に歩かれる際、心していただければ、より真実が見えてくると思い、引用しておく。(p.134)
 軽忽と臆病を排し、涙と気力をもって史跡と向き合う。しかと肝に銘じました。
 本書は、足尾鉱毒事件および田中正造に関する史跡を、足尾、日光、あかがねの道、東・黒保根・大間々、渡良瀬左岸(足利・佐野・岩舟・栃木)、渡良瀬右岸(太田・館林・板倉・北川辺)、渡良瀬下流域(藤岡・小山・古河・関宿)、東京・東北と、広範囲にわたって紹介する、フィールド・ワークにうってつけのガイドブックです。その行き届いた目配りには感嘆するしかありません、よくぞ調べたものだ。それに加えて、その史跡に関係する田中正造の文章・日記、あるいはあまり知られていない彼の言動なども紹介されており、単なるガイドブックの域を超えた厚みと奥行きをもっています。例えば、彼の墓が新たに発見された寿徳寺の紹介で、正造の指導を受けた室田忠七が遺した克明な『鉱毒日誌』の一部を引用されています。(p.56)
「御真影奉還之件ニ付、稲村忠蔵、室田忠七両人ニテ上京ノ途ニツケリ」(1899.6.14)
「田中代議士トモトモ文部大臣官宅ニ出頭、樺山大臣ニ面接シ御真影還納ノ儀ニ付陳情セリ。夫ヨリ内務省・文部省ニ出頭、前□ノ件ニツキ陳情セリ」(1899.6.15)
 表向きは鉱毒による生活の疲弊のため御真影を護持できず、これでは申し訳ないので中央官庁に返納したいと上京したわけです。しかしその内実は、利権で結びついた古河鉱業を擁護し、鉱毒被害を放置し、住民の疲弊を一顧だにしない天皇制政府からの離反を宣言する象徴的行為なのですね。何というしたたかさと豪胆さ。
また、正造が臨終を迎えた庭田清四郎家を紹介する記事では、木下尚江の談話・著作をもとにその臨終の様子を再現されています。(p.71)
 九月四日正午遂に翁の最後が来た、この日は珍しくいい天気だった。私は朝、翁の枕頭に座して「いかがですか」と訊ねた時、翁は「おれの病気問題は片づきましたが、どうも日本の打壊しというものはヒドイもので、国が四つあっても五つあっても足りることではない」と言い出して眉間に谷のようなしわを刻み、深い煩悶をせられた。
 昼近く、不意に「岩崎を呼べ」といわれた。岩崎佐十が枕辺に進むと、あの目で睨みつけ「おまえ方、大勢寄ってるそうだが、おれはちっともうれしくも有難くもねェ、おまえ方は田中正造に同情して来ているのだが、田中正造の事業に同意して来ているものは一人も居やしねェ、いって皆にそう言えッ」
 かつて議会で怒号したソックリの大声で怒鳴りつけた。岩崎は頭を垂れて出ていった。
 翁は突然、「起きる」といわれた。全身の力をこめて床の上にあぐらをかいた。私は背に廻り、両手で腰を支えると「いけねェー」といって、手を払われた。やむなく胸で背を支えた。夫人は正対してうちわで風を送っておられた。三回、五回、凡そ十回ばかり、「フーッ」と息を吐き切った時、「おしまいになりました」夫人は静かに顔を伏せた。
 他にも、県道拡幅事業による正造生家移動や、旧谷中村の墓地移転や史跡保存など、今も継続する諸問題にも触れるなど、単なる史跡めぐりに終わってほしくないという著者の思いを感じます。ただ惜しむらくは、史跡の所在地を示す地図がやや大雑把で、たどり着くのが難しかったケースがいくつかありました。小さな瑕疵ですが、改善していただけると幸甚です。

 さて、原発と放射能とによって、正造曰く「国が四つあっても五つあっても足りることではない」状況に追い込まれているのが現今の日本です。しかし、為政者やメディアは、その問題に本気で取り組もうとせず、尖閣諸島や竹島問題で中国や韓国に対する敵意と日本人のナショナリズムを煽りたてるばかり。ま、だから米軍基地やオスプレイが必要なのだという伏線なのでしょうが。DAYS JAPAN(2012.10)によると、昨年のペンクラブ会議でどなたかがこう言ったそうです。「先覚諸島や竹島どころではない。今私たちの国土は、放射能に侵略され、失われている。国境の内部でそれは起こっている」 さて、私たちは、為政者を監督し、国家権力の横暴や科学技術の暴走から自然と人間の暮らしを守るという田中正造の事業を受け継ぐことができるでしょうか。そして今年は田中正造没後100年です。どのような催しや顕彰がなされるかはわかりませんが、重要なのは彼の志した事業を受け継ぎ発展させること。その一点だけは忘れないようにしたいものです。そのためにも、足尾鉱毒事件や田中正造の事跡をふりかえることは重要だと思います。その杖となり草鞋となり道標となってくれる素晴らしいガイドブック、お奨めです。

 追記。間違いなくそれを受け継いだ一人、原発を批判し続けてきた原子力工学者の小出裕章氏を紹介する記事が朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記」(2012.9.6)に掲載されていたので紹介しましょう。
 京都大学の原子炉実験所は、大阪府南部の熊取町にある。助教の小出裕章(63)の部屋には、田中正造の写真が置かれている。
 農民とともに、足尾銅山の鉱毒被害を告発した正造。小出は時折、この写真を見つめる。昨年3月、福島で原発事故が起きた時もそうだった。
 東京出身の小出は、高校時代に見た原爆展で被害のすさまじさを改めて知った。そのエネルギーを人類の末来に役立てたいとも思い、東北大の原子核工学科に入った。
 入学翌年の1969年1月、小出は学内の生協のテレビに映った東大紛争の映像に息をのむ。安田講堂に立てこもる学生、攻め込む機動隊。東北大でも学生運動はあったが、別次元の烈しさだった。
 小出は活動家たちの主張に耳を傾けた。学問の役割とは何か、彼らはそれも問うていると小出は思った。
 問いかけは自分の専攻分野に向かった。広島の原爆で核分裂したウランは800㌘。これに対し、標準的な原発は1基につき年間1㌧のウランを燃やしている。いったん暴走すれば、このエネルギーは人間を襲う。
 本当に安全なら、なぜ電気を大量に消費する都会に原発を置かず、過疎地にばかりつくるのか。この問いに答えられる教員はいなかった。「国がやっていることだから」「我々にも生活がある」。こんな言葉が返ってきたこともあった。
 小出は原発の建設計画が進む宮城県内の女川町に赴き、住民と語り合った。公害の歴史も勉強し、明治天皇に直訴まで試みた田中正造の生涯をくわしく知る。「少しでも近づきたい」。小出は女川の反対運動に加わった。

by sabasaba13 | 2013-07-28 05:48 | | Comments(0)