2014年 01月 10日 ( 1 )

イタリア編(47):サン・フランチェスコ聖堂(12.8)

 それにしても、12世紀になぜ聖フランチェスコのような人物が現われたのか? 柄谷行人氏は『世界史の構造』(岩波書店)の中で次のように述べられています。
 12世紀になって、キリスト教は息を吹き返した。それは共同体の桎梏から解放された民衆個々人にアピールし、社会的な運動を巻き起こしたのである。新たに説かれたキリスト教の特徴は第一に、天上化されていた「神の国」を此岸化することにある。これはまた、「神の国」が歴史的に実現されるという見方となる。第二の特徴は、教会のハイアラーキーを否定することにある。それはまた一般に、身分の差別、富の差別、男女の差別を否定するものである。これら二つの要素が、教会や封建制社会に対立する、民衆的運動とつながることは明白である。
 具体的にいうと、11世紀に出現したカタリ派や12世紀のワルドー派がそのような社会運動であった。(p.222~3)
 教皇庁はこうした社会運動を「異端」として弾圧しましたが、同じようなことを始めたアッシジのフランチェスコ、さらにドミニクの修道会については容認します。カトリック教会もまた、それ自身を脅かさない範囲で、キリスト教本来のあり方を回復する必要があったからだというのが柄谷氏の主張です。これについては、藤沢道郎氏が『物語イタリアの歴史』(中公新書)の中で、聖堂の構造にも論及しながら、より詳細に述べられています。
 (※聖フランチェスコの死の)二年後、カトリック教会はアッシージのフランチェスコを聖別した。そしてこの年、今はエリアを長とするフランチェスコ修道会は、開祖が生きていたら決して承認しなかったであろう事業に着手した。聖者の徳を顕彰するため、アッシージにその名を冠した大伽藍を建立しようというのだ。聖フランチェスコの生涯はすでに民間信仰の対象となっていたが、それをさらに一歩進めて、その墓前にぬかずくための巡礼を奨励し、組織しようというのが教団と教皇庁の狙いである。集団をなして聖者の墓に参詣する民衆は、聖者がつい最近まで暮らしていたその土地で、彼の直接の弟子たちから聖徳溢れるその生涯の思い出を聞き、その絵姿を見れば、ますますカトリック正統の信仰を深め、この聖者を模範として生きようと決意を新たにするに違いない。これこそ理想的で能率的な宗教教育ではないか。サン・フランチェスコ聖堂はこの要求に従って周到に設計された。まず、地下墓所を正規の教会堂とし、大勢の巡礼の参拝を可能にするだけの広さを持たせること。第二に、巡礼大衆を一ヵ所に集め、そこで聖者の生涯の物語を肉声で聞き、肉眼で見るようにさせて、「鑽仰」から「模倣」へと進むように教育しなければならない。
 この二つの要求を満たすため、敷地はアッシージ市の西端の傾斜地に決められ、聖堂はその傾斜を利用して上堂・下堂の二層構造を持つこととなった。下堂には中央に聖者の遺骸を納めた石棺を置き、チャペルと祭壇を周囲に配置し、充分な空間を空けておく。上堂は何も置かず、柱列などはもちろん排除し、窓を数多く大きく高くとって採光をよくし、いわば明るい大講堂のようにする。大切なのは壁であり、そこに聖フランチェスコの生涯の物語を一面に描いて、巡礼団に見てもらうことにする。こうして建立されたサン・フランチェスコ聖堂は、イタリア・ゴシックを代表する見事な建築となった。(p.75~6)
 なるほどね、聖フランチェスコの思想を骨抜きにした上で、彼の遺徳を利用し、カトリックへの信仰およびカトリック教会への帰依を深めさせるために建設したのがこの聖堂だったのですね。ま、そりゃそうだ、この当時、富をしこたま"所有"していたカトリック教会にしてみれば、彼の思想は目障りだったでしょう。「厳しすぎないか?」と訊ねた時の、教皇イノケンティウス3世の表情が目に浮かぶようです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2014-01-10 06:16 | 海外 | Comments(0)