2014年 10月 28日 ( 1 )

オーストリア編(40):リンツ(13.8)

 しばらく歩くと、新大聖堂の高い尖塔が見えてきました。高さは134m、ウィーンのシュテファン寺院に次いでオーストリアで二番目だそうです。この付近にあった刃物屋さんで面白い看板を見かけました。ナイフが壁につきささっているワイルドな代物、もちろんカメラにおさめました。新大聖堂と、昨晩ケバブを買ったお店を撮影して散策を終了。
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 なおリンツはアドルフ・ヒトラーと所縁が深い町なのですが、情報と努力不足のため彼に関する史跡めぐりはできませんでした。せめて『ヒトラーのウィーン』(中島義道 新潮社)を参考に、彼とリンツの関係を紹介したいと思います。ヒトラーは1889年にブラウナウで生まれ、1894年にリンツに移住して実科学校(Realschule)に入りますが成績不良でした。なお同じ学校にヴィトゲンシュタインがいたそうです。母親はリンツから40キロ離れたシュタイアーの実科学校に転校させますがここでも成績不良となります。この時に彼と確執が深かった父親が他界しました。父アロイスは、息子を自分と同じ官吏にしようと望みますが、アドルフは画家を志望。その妥協案が実科学校でした。大学へも進めるし、製図やデッサンなども学べて造形美術アカデミーへの道も開かるというわけです。1903年にその父が死ぬと、実科学校で学ぶ意欲が失せ、ますます反抗的かつ軽蔑的態度で教師やクラスメートたちを眺めるようになりました。結局、留年、そして退学処分となります。1905年6月、母クララはアドルフを勉強させることをあきらめ、リンツ市内のアパートに移住、この時から1908年2月にウィーンに移り住むまでの2年8ヶ月がヒトラーのリンツ時代です。なおそのアパートは現存していて、中央駅とハウプト広場とのあいだのフンボルト通り31番地、四階建てのピンクがかった薄褐色色の小奇麗な建物だそうです。16歳の少年は、学校にも通わず、働くこともせず、といってぐれて遊びまわるわけでもなく、毎日小奇麗な身なりをして、散歩し、読書し、時々オペラ鑑賞に行き…、という定年を迎えた老人のような生活を続けました。男友達もガールフレンドもいなかった。毎晩きちんと家に帰り、母の手料理を食べ、それで彼は至極満足でした。
 これはまさに典型的な「ひきこもり」である。彼には基本的に他人が必要ないのだ。ひとりでいることに満足し、まったく孤独を感じないほど孤独だったとも言えよう。(p.189~90)
 中島氏曰く「他人を理解する能力を絶望的に欠いていた」(p.187)ヒトラー、その特異なパーソナリティを育んだのが、このリンツという町だったのかもしれません。これは、福島や沖縄の人びとの苦しみ・悲しみ・怒りを理解する能力を絶望的に欠いた御仁、安倍晋三伍長にも共通するパーソナリティですね。

 本日の一枚は、ハウプト広場です。
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by sabasaba13 | 2014-10-28 06:42 | 海外 | Comments(0)