2015年 03月 17日 ( 1 )

北海道編(27):釧路(13.9)

 そして川沿いにすこし歩いていくと、煉瓦造りの小振りなビルが見えてきました。そう、お目当ての「港文館」です。石川啄木が釧路駅に降り立ったのは1908(明治41)年1月21日の夜、その後、釧路新聞の新聞記者として76日間滞在し、社会論説や連載に精を出し、数多くの歌も残しました。これは旧釧路新聞社を復元したもので、市民の憩いの場として利用されるとともに、啄木の関連資料が展示されています。もちろんこの時間では開館していませんが。敬意を表して、毅然と腕を組み遠くを見つめる啄木の銅像と歌碑を撮影。
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
 その縁で、釧路市内には啄木歌碑が27基もあり、観光協会のサイトから「歌碑マップ」を入手することができます。とても全ては見られないので、これからそのうちの数基を拝見し、彼の下宿跡にも寄ってみようと思います。
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 その前に、スーパーニッポニカ(小学館)とウィキペディアを参考に、ここまでの啄木の歩みを辿ってみましょう。岩手郡渋民尋常小学校を卒業した啄木は、盛岡高等小学校に進み、128名中10番の好成績で岩手県盛岡尋常中学校に入学しました。しかし上級学年に進むにつれて文学と恋愛に熱中して学業を怠り、カンニング事件を起こして盛岡中学校を退学しました。やむなく彼は文学をもって身をたてるという美名のもとに1902(明治35)年の秋上京、新運命を開こうとするが失敗。翌年2月に帰郷して故郷の禅房に病苦と敗残の身を養いました。その年の夏、アメリカの海の詩集『Surf and Wave』の影響を受けて詩作に志した啄木は、その後与謝野鉄幹の知遇を得て東京新詩社の同人となって『明星』誌上で活躍、明星派の詩人としてその前途が嘱望されました。しかし啄木の父が宗費滞納を理由に曹洞宗宗務局より宝徳寺の住職を罷免されたので、一家は盛岡に移り、啄木は堀合節子と結婚して一家扶養の責任を負うことになります。まもなく生活に行き詰まったため06年の春渋民村に帰り、母校の代用教員となりました。彼は勤務のかたわら再起を図るため小説家を志しますが失敗、故郷を去って北海道に移住することになります。
 1907年(明治40)年5月、函館に移って函館商工会議所の臨時雇い、弥生尋常小学校の代用教員、函館日日新聞遊軍記者などで生計を立てますが、大火によって函館を離れざるをえなくなります。9月、札幌で「北門新報」の校正係となり、9月末、さらに小樽に移り、近く創刊される『小樽日報』の記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社します。1908年(明治41)年1月、家族を小樽に残して「釧路新聞」に勤務しますが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる決意をすることになります。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-03-17 06:40 | 北海道 | Comments(0)