2015年 05月 09日 ( 1 )

小林清親展

小林清親展_c0051620_7333281.jpg とある駅の構内をのてのてと歩いていると、「小林清親展」というポスターを見かけました。文明開化が進む明治の東京の景観を、抒情豊かに描いた"最後の浮世絵師"小林清親か。会場は練馬区立美術館、家から近いことだしこれはぜひ見にいきましょう。山ノ神を誘ったところ快諾してくれたので、四月中旬の日曜日に行くことにしました。
 当日、まずは友人たちと二時間ほどテニスを楽しみました。アングル・ショットを何度もきりかえされ、ポジショニングの甘さを反省。家へ戻り、山ノ神と蕎麦屋「176」で、卵焼きと天丼とせいろに舌鼓を打ちました。ぽーん。最近、『エビと日本人Ⅱ -暮らしのなかのグローバル化』(村井吉敬 岩波新書)を読み終えたばかりなので、かなり気が引けましたが。エビ養殖池のためにマングローブが伐採され、スマトラ島沖地震による津波の被害が倍加されたのですね。でも美味しい。誰も不幸にしないで、みんなで美味しいエビを食べるにはどうしたらいいのでしょう。
 そして西武池袋線に乗り中村橋駅で下車、数分歩くと練馬区立美術館に到着です。予想通り、混雑はしていないので、ゆっくりと鑑賞できそうです。それはそれでよいのですが、気になるのは若者の姿がほとんど見えないことですね。美術に対する関心がないのか、経済的・精神的ゆとりがないのか、性急な判断は控えますがちょっと憂慮してしまいます。
 まずはチラシに載っていた美術館からのメッセージを紹介します。
 江戸、本所に生れた小林清親(弘化4~大正4 1847~1915)は幕臣として伏見の戦いにも参戦、江戸城開城を目の当たりにするなど、まさに、江戸の終焉を肌身に感じる青年時代を送っています。
 明治9年(1876)、清親は江戸からの変貌を遂げた東京の風景を、銅版画や水彩画を意識し、光と影の表現を駆使した新しい感覚の木版画として世に送り出しました。「光線画」の誕生です。清親はこの新東京風景を次々と発表しセンセーショナルなデビューを果たします。こうした風景画に加えて花鳥画や静物画などを発表。その表現、技術共に頂点に達しますが、明治14年を最後に好評だった東京風景画をやめ、戯画、社会風刺画を描きジャーナリズムとの関係も深めていきます。明治27年、日清戦争がはじまると戦争画を手がけるなど、社会、風俗に応じた、浮世絵師としての仕事を全うしてきましたが、木版画の斜陽には抗えず、出版からは離れ、50歳を過ぎた頃から肉筆画にその活動の場を求めていくことになります。
 明治後期からは一線を退き、時代に取り残された浮世絵師の残像と見なされがちな清親でしたが、近年、肉筆画の大作が発見されるなど評価も変わりつつあります。
 没後100年の記念展となる本展では、版画・肉筆画・スケッチなど約280点により"最後の浮世絵師"清親を総合的に回顧します。
 本展覧会は、清親の画業を「光線画」「風刺画・風俗画」「肉筆画・スケッチ」に分けて展示しています。まずは「光線画」です。煉瓦造りの建物、アーチ橋、電線と電信柱、文明開化を象徴する建造物を、清親の眼は好奇と驚嘆ともって的確に描きます。しかし、江戸の面影を色濃く残す空間に、それらがしっとりとおさまっているのが不思議です。江戸という街の懐の深さなのでしょうか。さらにそうした近代的建造物が、雨、雪、水(川・海・運河)、闇とともに描かれるとより魅力的となります。清親の意図を見事に表現した、彫師・摺師の匠の技も素晴らしい。近代が江戸を圧倒し併?し圧殺する直前の、この時期にしか描けない光景を切り取ってくれた清親に感謝します。なお購入した図録に教示していただいたのですが、永井荷風が『荷風随筆集(上)』(岩波文庫)におさめられている「日和下駄」の中で、次のように記していました。
 明治十年頃小林清親翁が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま木板摺にした東京名所の図の中に外桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。当時都下の平民が新に皇城の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば稚気を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と相俟って遺憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。(p.67)
 しかしこの光景も、"僅か二、三十年とは経たぬ中、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、漸次跡方もなく消滅して"しまったのですね。(p.68)
 そして彼の浮世絵をさらに魅力的にしているのが、風景とともに描かれた群像や人物です。周囲の景観に溶解しているかのように、そのほとんどがシルエットとなっています。清澄で香気のあるエーテルのようなもので包まれた静かな街並みと、そこに漂う人びと。「無音の風景」とも言うべき静謐な街の風景。あれ、どこかで見たことがあるぞ。そうか、松本竣介の絵に似ているんだ。松本竣介が描いた街の風景画は彼の心象風景のような気がしますが、清親が描いたそれは現実のものだったのでしょう。あらためて江戸の景観の魅力を感じるとともに、それを破壊した「近代」というものへの疑問にとらわれます。荷風が"江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な『明治』と一致する事が出来ず"と、辛辣な小言を呟いたのもむべなるかな。(「深川の唄」 『荷風語録』(岩波現代文庫)所収)
 そして「風刺画・風俗画」へ。一転、清親の絵は、「近代」の影を告発していきます。「団団珍聞(まるまるちんぶん)」に掲載された、私の大好きな「眼を廻す器械」が彼の手によるものだとはじめて知りました。仕事に追いたてられ眼を廻す下級官吏、開化・改良の名のもとに、個人を容赦なく競争へと駆り立てる「近代」という時代を見事に描きました。『近代漫画Ⅱ 自由民権期の漫画』(前田愛・清水勲編 筑摩書房)の中で、清水勲氏は次のように述べられています。
 錦絵が低コストの石版画に押されぎみになり、新しいテーマが求められたとき、清親は風刺画を選んだのである。それは、旧幕臣の藩閥政治への批判、自由民権運動への共鳴姿勢を積極的に示そうとした生き方の発露であった。
 時代の激しい波に抗する清親の信念は、その作品に如実に現れている。たとえば明治15年末に起きた福島事件関係者への拘引は清親を大いに憤慨させ、肖像画『天福六家撰』を描くきっかけとなる。…
 清親は開化の東京を描いた最後の浮世絵師であると同時に、近代社会の矛盾の数々を最初に告発した風刺画家であった。(p.83)
 なお、展示では風刺画についての解説があまりありませんでした。今となっては時代背景や政治状況が理解しづらいので、もうすこし丁寧な解説が欲しいところです。
 しかし日清戦争が始まると、清親はスペクタクルな大判の戦争画を描くようになります。連戦連勝が伝えられ排外主義的熱狂に包まれた世論の影響を、清親も受けたのでしょうか。
 そして「肉筆画・スケッチ」。明治30年代に入ると出版の仕事が減り、清親は日本各地をめぐりながら多くの肉筆画を残します。自由闊達でユーモアに富んだ作品を堪能。
 家に戻って、マーラーの交響曲第3番を聴きながら昼寝、山ノ神のつくってくれた夕食に舌鼓を打ち、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第4番のブーレを練習。テニス、天丼、清親、マーラー、昼寝、チェロ、小確幸(小さいけれど確固たる幸せ)に満ちた一日でした。
by sabasaba13 | 2015-05-09 07:34 | 美術 | Comments(0)