2016年 05月 23日 ( 1 )

『日本の百年7 アジア解放の夢』

 ひたひたと迫り来る戦争の足音、5兆541億円の軍事費、政治家・官僚の頽落、萎縮し権力に迎合するメディア、炎上するナショナリズムとレイシズム、果てしなくひろがる貧富の差。その荒涼たる光景に慄然とし立ち竦んでしまいます。1920~30年代の日本にも、きっとこのような光景がひろがっていたのかなと想像します。だとしたら、同じ失敗を繰り返さないためにも歴史を学ぶことは私たちにとって喫緊の課題です。
そこでみなさまに紹介したいのが、ちくま学芸文庫におさめられている『日本の百年』全十巻です。そんじょそこらの凡百な通史、教科書・参考書のような事なかれ主義の平板な通史とは、雲泥、月と鼈、提灯と釣り鐘。開国以来日本の歩んできた百年、そこに生きた人々、当時の雰囲気、世相風俗を浮き彫りにしたドキュメントです。公式記録、史料、体験談、新聞、雑誌、回想録、流行歌を駆使して、その時代の息吹や人々の息遣いを再現しています。その博覧強記たるや、もう脱帽です。それもそのはず、編著者は鶴見俊輔、松本三之介、橋川文三、今井清一といった錚々たる手練。ドキュメントを貫き支える骨太の歴史観にも、学ぶところ大でした。ただ残念ながらほとんどの巻が絶版、でもインターネットの古本屋で手に入るかと思います。
 いずれ劣らぬ面白さですが、出色なのはやはり『日本の百年7 アジア解放の夢』(橋川文三編著)です。1931年の満州事変から1937年の南京攻略の時代、内に東北農村の凶作、権力による苛烈な弾圧、昭和維新の嵐、外に満州国の建設、抗日の激流、そして社会が不安と退廃に澱んでいた時代です。前述のように、今現在を彷彿とさせる時代であるだけに、ぜひとも知っておきたい、いや知らなければいけない歴史だと思います。

 この時代の躓きのひとつに対中国関係がありますが、それに関する孫文の言葉と橋本氏の分析を引用します。
 1924年11月、日本を訪れた孫文は、長崎においてつぎのような談話をおこなった。
  「日本の維新は中国革命の第一歩であった。中国革命は日本維新の第二歩である。中国の革命と日本の維新とは、実際同一の意味のものである。おしいかな、日本人は維新後富強を致し得て、かえって中国革命の失敗を忘失してしまった。ゆえに中国の感情は日に日に疎遠となった。」
 この短かいことばの中に、五十年にわたる日中両国の関係の明るい面と暗い面とが、簡潔にものがたられている。(p.15)

 日本のエリートも国民も、革命中国の中に明治維新の精神を見る能力をしだいに失っていった。日本はかつてその味わった植民地化の危機意識をおき忘れ、しだいに先進帝国主義国に追随する「優等生」として、後進中国を「劣等生」と見る習慣を身につけるようになった。
 1915年、日本によって中国に強制された二十一カ条要求は、早熟な優等生のおかした致命的な失敗であった。それは中国民族にとって「国恥」の意識をきざみつけることになった。さらにまた中国革命の波が北伐によって新たな昂揚を示したとき、日本は露骨な干渉出兵(山東出兵)を三たびくり返して、中国の民心を刺激した。
「なんといっても山東出兵はわが国の大失敗だった。あらゆる方面よりみて失敗だった。この暗愚な一事件のため、日支の関係は根柢より攪乱された。実に不用意な出来事にして、かつとり返しのつかぬ失敗である。」(長島隆二 『政界秘話』 1918)
 日本は中国の現実とその未来をとらえる能力を見失った。そこには悲劇的な無能さがあった。孫文はその死の前年、「西洋帝国主義の番犬となるか、あるいは東洋王道の前衛となるか」という選択を日本国民の前に呈示した。しかし、維新後五十年をへた日本国民の意識からは、中国ナショナリズムへのリアルな感覚は失われ、中国の個々の行動への軽べつと憎しみのみが国民心理をとらえていた。のち1933年、日本は国際連盟において「中国は国家にあらず」と宣言してはばからなかったが、その心理は大正年間を通じて久しくやしなわれたものであった。(p.17~9)
 なるほど、中国革命やナショナリズムを「第二の明治維新」ととらえるのは炯眼ですね。不平等条約を強要されて苦しんだ近代日本なればこそ、すぐ気づきそうなものですが。たとえば、ソ連が北海道を武力占領して領有し、同国にとっての「生命線」であるとして傀儡国家として独立させたら、当時の日本人はどう考えるか。「中国の現実とその末来をとらえる能力を見失った悲劇的な無能さ」という言葉が胸に突き刺さります。もしかするとわれわれはその能力をいまだに見失っているのかもしれません。

 またこの時代に、国家権力に抗いながら生き抜いた人びとがいたことにも勇気づけられます。岩倉靖子、魯迅、小林多喜二、多喜二の母セキ、武谷三男、ねづまさし、野上弥生子、いずれも忘れ難い方々です。
 華族制度の生みの親ともいうべき岩倉具視の家系に、靖子のような共産主義者が現われ、華族制度を批判したのは、まったく皮肉というほかない。
 1932年秋検挙されて、一年間拘留された岩倉靖子は、この間、頑強な女党員として警察や岩倉家を手こずらせた。だが、彼女につねに同情的だった兄具栄の宮内省退職は彼女の心を動かした。ついに獄中で転向した靖子は、保釈で出所した。そして母のもとに帰って十日、明日は予審終結という早朝、彼女は自殺したのである。日本の思想史全体を通じて、転向の責任をとるために自殺した例は非常に少ないが、この22歳の貴族の娘には、恥の倫理が生きていたのだろうか。(p.101)

 中国の文学者魯迅は、小林の死を悼み、暴虐な権力に抗議して日本文でつぎのような弔電をよこした。
「同志小林の死を聞いて
 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだましてその血で界をえがいた、またえがきつつある。
 しかし、無産階級とその先駆たちは血でそれを洗っている。
 同志小林の死はその実証の一だ。
 われわれは知っている。われわれは忘れない。
 われわれは堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。」(『プロレタリア文学』 1933年4・5合併号)
 多喜二の母セキは、1961年5月小樽で死んだ。多喜二が「蟹工船」で不敬罪に問われ、獄中にいたころ、彼女は息子との文通のために字を書くことをおぼえた。彼女の死後つぎのようなことばをしるした紙片が見出された。
「あーまたこの二月の月がきた ほんとうにこの月とゆ(いう)月か(が)いやな月 こい(声)をいぱいになきたい どこにいてもなかれない あーて(で)もラチオ(ラジオ)て(で)しこす(少し)たすかる あーなみたかてる(涙が出る) めか(が)くもる」 (p.260~1)

 滝川事件で、政府の思想統制に反対する運動の中心となった京都に、もう一度、軍国主義にたいする反対の運動がうまれた。
 満州事変の前年、1930年9月に、美学者の中井正一、美術史家でオーケストラの指揮者でもある長広敏雄を中心として、『美批評』という同人誌が発刊された。これは近代美および新しく解釈された日本古典美術の紹介研究を目的とする、純粋の学術雑誌だった。発刊後三年目に起こった滝川事件は、このグループの性格を変えた。このころ、雑誌は一時休刊となったが、美批評研究会という名前で、大阪朝日社長上野精一から月二十円の援助をうけて会合をつづけた。新しいメンバーには哲学者の真下信一、久野収、梯(かけはし)明秀、数学者近藤洋逸、物理学者武谷三男、フランス文学者新村猛、ドイツ文学者和田洋一、歴史家禰津正志、北山茂夫、ロシア文学者熊沢復六、政治学者大岩誠、滝川事件のときに京大をやめた法律学者加古祐二郎、弁護士の能瀬克男らが加わった。
 1935年2月、このグループは『世界文化』という月刊雑誌を出しはじめた。(p.355)

 1937年1月、作家野上弥生子は、年頭の新聞につぎのような願いを書いた。
「…神聖な年神様にたったひとつお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、大火事があっても、暴風雨があっても、大噴火があっても、コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように…」 (p.511~2)
 また、こうした暗い時代が、今まさに再び現前しつつあるように思われるのは、国家権力の中となった「管理エリート」たちが、責任を問われずに戦後も活躍したということにあると考えます。例えば、ファシズム体制構築に欠かせない強制的同質化(グライヒシャルトゥング)の主役となった内務官僚・警察官僚・司法官僚たちです。最近読んだ『ファシズム』(山口定 有斐閣選書)の中に、"近年の研究が一致して指摘しているところによれば、内務官僚、とりわけ警察官僚の優位は極めて顕著であり、そのことが、日本ファシズムの場合、「下から」の自発性に支えられた大衆動員を困難にしたといわれる"(p.223)という指摘がありましたが、「上からの」ファッショ化を推進した方々です。統治行為論を挙げるまでもなく、法治国家・立憲主義が平然と踏みにじられるケースが多いのも、これに関係していそうです。
 このエピソードの中に、ナチスと日本の国家主義のちがいが現われている。侵略戦争のための思想統制を担当しながら、ドイツにおいては、ヒムラーは敗戦とともに自殺し、日本においては、思想統制の直接担当者である山崎巌元内務省警保局長・警視総監・内務次官は、戦後内務大臣・衆議院議員となり、転向対策を立案した大審院検事池田克は、戦後の最高裁判所判事、おなじく立案者の名古屋区裁判所検事長部謹吾は、戦後の検事次長である。彼らの努力は、ヒムラーのように鞭だけを持ってするのではなく、片手に鞭を持ちつつ温情をもって接することで、国体観念を共産主義者の心の中にしぜんに湧きあがらせるという形をとった。(p.301~3)
 そして中国外交部長・張群が、当時の日本における政治を「おみこし」に譬えて鋭く分析した一文には、脱帽しました。
 日本の政治、思想がしだいに異常なゆがみをあらわしはじめたころ、中国の外交部長張群は日本の行動をおみこしにたとえて、つぎのように語った。
「(日本のゆき方は)自分が日本に留学していた時代に、お祭に出てくるおみこしを見たことがあるが、ちょうどあのおみこしのかつぎ方に似ている。おみこしのお通りになった跡をよくみると結局は目的地に到着してはいるが、その途中では、あるときはあっちの電信柱にぶつかりそうになったり、あるときはこっちの店先にとび込みそこなったり、これを側で見ているものからはハラハラすることばかりだ。しかし、これは誰かがことさらにそんなかつぎ方をさしているのかといえば、結局そうではない。おみこしはほとんど不可抗力的に電信柱にぶっつかり、または店先にとび込もうとしている。(略)
 支那のほうでは日本のおみこしさんを誘導しているのが、日本の軍部の力だと、こんな具合に観察している者が多い。しかし、これもまたおみこしさんというものの実情をみた経験のある自分からいわせれば、日本のおみこしさまも、決して軍部の思う通り動くものではない。」(根本博 「南北支那飛脚記」、『文藝春秋』 1936.3)
 この見方は日本ファシズムのエネルギーのあり方をよく示している。「みこし」とは、神聖な権威を象徴しており、それをかつぐ人びとは権力の地位にある軍人や官僚や狂信的な学者・思想家、もしくは右翼の無法者たちであった。彼らはみこしを振りまわすことによって、無責任にすべての異端者におそいかかり、それをおしつぶした。
 日本社会におけるもっとも正統的な権威はいうまでもなく国体であり、それを肉体化した天皇であった。しかし国体が何であるかは日本の国体論者にも明確に定義することはできなかった。それは気体のようにとらえどころのないある普遍的なものとして偏在した。それは限定されえないあるものとしてかえって人間の根源的エネルギーの源泉となることができた。みこしに意志はない。しかしかえってあらゆる人間集団の欲望をみたす象徴となることができた。(p.374~7)
 なるほど、絶対的権威のもと匿名で、leadershipなきまま権力を行使するエリートたち。絶対的権威を畏怖して、批判もせずに道を空けてしまう民衆。「おみこし」とは言い得て妙、卓抜な比喩です。その「おみこし」は、戦前は天皇、今はアメリカ合州国なのでしょう。

 さてその「おみこし」がそろそろ来日します。広島でどのようなスピーチをするのか注視したいと思います。
by sabasaba13 | 2016-05-23 06:34 | | Comments(0)