2017年 11月 06日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 31

 9月6日、木曜日。午前2時、埼玉県寄居で、朝鮮アメ売りの青年が虐殺されました。朝鮮アメ売りとは、天秤棒につけた箱を担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩く商売です。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終了して仕事がなくなったためにアメ売りになることも多かったそうです。青年の名前は、具学永(グ・ハギョン)さん、28歳。二年前から寄居に居ついた、小柄でやせ型、おだやかで人のいい若者だったそうです。町の人で、声を張り上げて朝鮮アメを売る彼のことを知らない者はいませんでした。
 9月1日の震災以降、寄居でも例の通達によって自警団が結成されましたが、平穏が保たれ、具さんに危害を加えようという者はいませんでした。しかし不安を感じた具さんは、5日の昼ごろ、寄居警察分署に現れて自ら「保護」を求めます。
 しかし寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていました。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことでした。ついに本物の「不逞鮮人」を捕えた興奮に、100人以上が集まりましたが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかりました。がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始めます。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していきました。村人は警察署に押し寄せ、朝鮮人を引き渡せと叫びます。星柳三署長と署員たち、在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えますが、興奮した彼らは聞く耳をもちません。群衆は署長らを排除して署内になだれ込み、竹槍や日本刀で具さんを斬りつけ、集団で暴行を加えて虐殺してしまいます。
 留置房のなかに追い込まれていたとき、彼がそばにあったポスターの上に、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いたそうです。「日本人、罪なき者を罰す」という抗議の意思表示だったのかもしれません。
 具学永さんの墓が、寄居の正樹院に残っています。正面に「感天愁雨信士」と戒名。右の側面には「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居 俗名 具学永 行年 二十八才」、左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られています。虐殺犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているというのは珍しいそうです。(⑨p.98~102)

 9月6日午前10時ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)三ツ堀において、香川県の売薬行商人の一行15名が朝鮮人とされ、女、子どもを含む9名が、福田、田中村(現・柏市)の自警団によって殺害されるという事件が起こります。いわゆる福田・田中村事件です。生存者・太田文義氏の証言によると、三ツ堀近くの香取神社で、船賃のことで交渉していると渡し場の船頭が騒ぎだし、福田村・田中村の自警団が押し寄せてきて、「君が代を歌え」「教育勅語」「『一五円五〇銭』をいってみろ」等のやりとりがあった後、「怪しい者はやってしまえ」ということで虐殺しました。言葉づかい(讃岐弁)や、めずらしい黒い羽の扇子を持っていたことも疑惑のもとだったそうです。
 事件後間もなく、千葉地方裁判所で裁判が行なわれますが、被告たちは、例外なく「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と陳述しています。驚くべきことに、予審判事は裁判の始まる前から「量刑は考慮する」と新聞紙上で語っています。さらに大正天皇の死去による恩赦で、一番長く刑務所にいた者でも、拘留期間を除くと一年半ぐらいの服役にしかなりませんでした。
 懲役三年の実刑判決を受け服役した田中村のT氏は、その後村長選挙に当選して村長に就任しています。また、検挙が始まった10月2日、田中村の会議で四人の被告に対し、見舞い金の名目で一人90円の弁護費用を出すことを決め、それを村の各戸から均等に徴収しています。(⑬p.76~8)
 なお石井雍大氏は、行商団の人たちが日本人であると分かっていて虐殺したのではないかと指摘されています。そのうえでの氏の論考を引用します。たいへん重要な論点だと思いますので。
 それでは、福田・田中村事件の場合、行商団の人たちが「朝鮮人ではないのでは」と、少なからずわかっていたにもかかわらず、殺害に及んだのはどうしてか。そこにもまた同じ日本人であっても貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造があったと考えられるのである。
 事件に巻き込まれた香川県の行商団の人たちは、被差別部落の人たちであった。香川県の場合、所有農地が少ない農家(平均五反)が多く、小作率も全国一である。したがって、被差別部落の人たちが、たとえ土地を買いたくてもなかなか売ってもらえない、また小作をしたくてもさせてもらえない状況があった。そのような理由から、少なからぬ被差別部落の人たちは行商に出ざるをえなかったのである。
 部落差別を受け、行商を生業とせざるをえなかったため、大方は貧しい境遇であった。このことも行商人一行に対する目に見えるかたちでの蔑視、偏見、差別の要因になった。「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」こんな意識が働いたことは十分考えられる。
 事件が「朝鮮人と誤認され」といわれているが、単に日本人の民族排外心理一般の中での誤認事件ということだけではカバーしきれぬ問題があると考えざるをえない。(⑬p.79~80)

 なお円福寺大利根霊園に、この事件の慰霊碑が建立されました。
by sabasaba13 | 2017-11-06 06:41 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)