2017年 11月 21日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 38

 よって裁判も杜撰かつ醜悪な様相を呈しました。例えば、当時の船橋警察の警官だった渡辺良雄氏は、裁判について次のように記しています。
 九月二十日頃から、自警団、その他の殺人犯人の検挙が開始された。私達は、重大問題が起ると心配しながら、浦安町や行徳町方面に早朝出張して、犯人多数を連行してきた。その時、船橋町の稲荷屋という料理屋に、千葉から裁判官と検事や書記が来て、二階に陣取っていた。彼等は、連行して来た犯人を次々と呼び出し、検事から最初は「君は執行猶予にする」と予言して、取調べを始めた。すると犯人は、素直に犯行を認める。そこで隣りに控えている判事の手に渡すと、判事は、「お前は二人殺したか。それでは懲役二年、執行猶予三年に処する。わかったか。」 「控訴するか」 判事が犯人に尋ね、「控訴しません」と答えが返ると「それでは帰って宜しい」というような処置が行われたので、私達はこれを一日裁判と呼んだ」(①p.257)
 元本庄署巡査・新井賢次郎氏の証言です。
 裁判もいいかげんだった、殺人罪でなくて騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたがほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれたが検事は虐殺の様子などつとめてさけていたようで最初から最後まで事件に立合っていた私に何も聞かなかった。そして安藤刑事課長など私に本当のことを言うなと差し止め、実際は鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上の本当のことは絶対に言うなと私に強要した。私も言われた通り証言した。(①p.255)
 こうした裁判の名に値しない裁判の結果はどうであったのか。1923年10月1日より翌年2月末日までの『法律新聞』を調査した研究者・松尾尊允氏によると、12件、125名の被告のうち無罪2名、執行猶予91名、実刑32名、そのうち最高刑は4年(2名)でした。そして、警察を襲撃して朝鮮人を虐殺した被告や、日本人を虐殺した被告に比べて、朝鮮人を虐殺した被告が執行猶予となるケースが多くありました。その上、これらの実刑被告の多くは翌年1月26日、皇太子の結婚の際の恩赦を受けて、実質収監は三ヵ月余にすぎませんでした。そればかりか、事件の余燼の収まった1926年にはこの立役者たちの功績に叙勲が行なわれ、恩賞が与えられました。(①p.257、④p.85)

 なお姜徳相氏の以下の指摘はとても重要だと思いますので、引用します。
 各地で裁判を受けた人たちの職業別統計を検討すると、鳶職、桶屋、馭者、土工、職工、大工、製管工、日雇など、ほとんどがいわゆる「下層細民」に属する人びとであることがわかる。
 米騒動のとき政府批判の先頭に立った立役者たちが、朝鮮人虐殺の下手人になっているのである。おのれ自身搾取され、収奪され、日本の歴史に米騒動を刻印した人びとが、自分たちの受けた差別へのうっせきした怒りの刃をもっと弱いよそものにむけたことで解消したのである。これは日本帝国主義が植民地を獲得したことの盲点であり、植民地制度によってさずけられた特権であった。特権の上にたって、自分たちよりもう少し貧弱で、圧殺されている存在を見下して安心したのである。朝鮮人は軽蔑し圧迫するに適当な集団とみられたのである。(①p.252)

by sabasaba13 | 2017-11-21 06:34 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)