2018年 01月 18日 ( 1 )

『否定と肯定』

c0051620_6341437.jpg 竹橋の国立近代美術館で「熊谷守一展」を見て、竹橋駅から地下鉄東西線に乗って飯田橋駅へ、地下鉄有楽町線に乗り換えて有楽町駅に着きました。そして「TOHOシネマズシャンテ」で、映画『否定と肯定』を見ました。監督はミック・ジャクソン、公式サイトから、あらすじを転記します。
 1994年、アメリカのジョージア州アトランタにあるエモリー大学でユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)の講演が行われていた。彼女は自著「ホロコーストの真実」でイギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)が訴える大量虐殺はなかったとする"ホロコースト否定論"の主張を看過できず、真っ向から否定していた。
 アーヴィングはその講演に突如乗り込み彼女を攻め立て、その後名誉毀損で提訴という行動に出る。異例の法廷対決を行うことになり、訴えられた側に立証責任がある英国の司法制度の中でリップシュタットは"ホロコースト否定論"を崩す必要があった。彼女のために、英国人による大弁護団が組織され、アウシュビッツの現地調査に繰り出すなど、歴史の真実の追求が始まった。
 そして2000年1月、多くのマスコミが注目する中、王立裁判所で裁判が始まる。このかつてない歴史的裁判の行方は…
 裁判を描いた映画には、シドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』、ビリー・ワイルダー監督の『情婦』、周防正行監督の『それでもボクはやってない』といった傑作がありますが、それらに勝るとも劣らない映画でした。
 まずは裁判ドラマとしての面白さを堪能しました。直情径行・猪突猛進型の主人公と、冷静沈着・理路整然型の英国弁護士たちの、丁々発止としたやりとりが面白い。自ら法廷に立ったり、強制収容所生存者に証言をしてもらったりして真っ向勝負を挑もうとする主人公を、弁護団は窘めます。一緒に土俵に立って相手のペースに乗せられてはいけない、その主張の荒唐無稽さを実証的に論駁するべきだとして、綿密な戦略を練る弁護団。はじめはぎくしゃくしていた両者の歯車が、やがて噛み合い、一致団結して歴史修正主義者に立ち向かっていく様子には軽い興奮を覚えました。またアーヴィングの日記を提供させて精査し、実際にアウシュビッツまで行って調査するなど、確実な証拠を集めようとする弁護団の努力もよく描かれていました。イギリスには裁判の準備と戦略を練る事務弁護士と、法廷で弁論に立つ法廷弁護士という役割分担があるそうですが、後者のリチャード・ランプトンを演じたトム・ウィルキンソンが実にいい味を出していました。ワインを紙コップで飲むなど、飄々とした好々爺然としているのですが、法廷での舌鋒鋭い弁論には見惚れてしまいました。また犠牲者のために闘う決意を秘めるためでしょうか、アウシュビッツで鉄条網の破片をポケットにしのばせるところも実に良いシーンでした。
 もう一つの重要なモチーフが、歴史修正主義者への批判です。さまざまな手練手管を用いて真実をねじ曲げる歴史家デイヴィッド・アーヴィングの下劣さを、ティモシー・スポールが見事に演じていました。(山ノ神が「ハリー・ポッター」に出てた、と呟く) そしてこの映画のほんとうの主人公は、"Post Truth"、客観的な事実が重視されず、感情的な訴えが政治的に影響を与える状況なのかもしれません。裁判所に向かうリップシュタットに罵声を浴びせ、アーヴィングを歓呼の声で迎える群衆の姿に慄然としました。「私たちはこう戦った。あなたはどう戦う?」というリップシュタットと弁護団の静かな声が耳朶に響きます。

 従軍慰安婦、南京大虐殺、沖縄戦などに関する歴史修正主義者が跋扈する現今の日本。また陰に陽にそうした動きを鼓舞する首相と政党が支持される日本。さあ、どうすればいいのか、この映画がひとつのヒントになると思います。

 たまたま持参していた『暴政 20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』(ティモシー・スナイダー 慶應義塾大学出版会)に次の一節がありました。
 真実である事実を放棄するのは自由を放棄することです。仮に何一つ真実たりうるものがなかったら、誰一人権力を批判できないことになってしまいます。批判しようにも根拠がなくなるからです。仮に何一つ真実たりうるものがなかったなら、すべては見せ物になってしまいます。誰よりもふんだんに金を使った者が、誰よりもよく人々の目を眩ますことができるのですから。(p.60)
 『週刊金曜日』(№1166 17.12.22/18.1.5)の中で、放送作家の町山広美氏が、この映画を見てこうコメントをされていました。
 歴史修正主義者の体質をよく描いています。映画を観てわかるのは、歴史修正主義者って、そうではないと私たちが思うほど、深く考えてはいない。充分な知識がなくても発現する。あの人たちはそれを勇気だとか、自分のパワーだとかと思っているんです。チキンレースだか度胸試しを勝手に始めて、勝手に勝ったつもりでいる。だから自信満々。(p.28)
 そして購入した映画パンフレットにおさめられていた木村草太氏(憲法学者)による「ディナイアル」というエッセイもたいへん参考になりました。長文ですが、後半部分を引用します。
 映画にある通り、彼らは「証拠」を無視するわけではない。文書の中から自分に有利な部分だけを取り出したり、外国語を翻訳したりして、自説の「証拠」だとする。オーソドックスな研究者にまとわりつき、無視されると「あいつは自分に対して有効に反論できなかった」と吹聴する。アウシュビッツの生存者に対しては、「ガス室のドアがあったのは左か右か」といった些事を質問し、言い間違いや記憶違いを引き出して侮辱する。
 彼らの口撃は、熱心でしつこい。そのエネルギーをボランティア活動に注ぎ込めば、社会はだいぶ豊かになるだろうに。なぜ彼らは、非生産的な活動にそこまでエネルギーを費やすのか。
 否認の背景には差別感情がある。ユダヤ人や中国人に対して差別感情を持つ人々は、ホロコーストや南京大虐殺の否認を喝采するだろう。差別主義者という歪んだコミュニティーではあっても、その中で上り詰めれば、それなりの「名誉」を獲得する。出版や講演を通じて、経済的にも得をする。政治家にとっては票にも結び付く。これだけの見返りがあれば、彼らが熱心になるのも当然だ。
 しかし、否認は、人権の理念、学問的誠実さ、一般社会での道徳など、ありとあらゆる人間的な徳目に反する。それを防ぐには、どうしたらよいのか。
 この映画は、メディアによる「両論併記」に大きな問題があることを示唆している。確かに、誠実に学問的検討をして議論が分かれる場合には、双方の主張を吟味することが不可欠だ。しかし、ホロコーストの否認と歴史学の一般的見解とを併記すれば、前者が後者と並び立つ重要な見解であるような錯覚を与えるだろう。弁護団は、リップシュタットとアーヴィングを、同じ土俵に立たせなかった。これこそが正しい対応なのだ。
 2015年夏、集団的自衛権行使容認の合憲性をめぐり、日本の憲法学者の見解は、違憲9対合憲1程度に分かれたと言われる。しかし、1対1の割合で「両論併記」するメディアも多かった。議論の質や比率を無視した「両論併記」は、公正でも中立でも誠実でもない。
 私は当時、集団的自衛権の行使は合憲だとする論拠をネッシーに例え、「ネッシーを探すよりも、『ネッシーはいる』と主張する有名人を探す方が簡単だ」と解説した。ネッシーがいる証拠を示せなくても、ネッシー学者の主張を毎日聞いていれば、大衆はネッシーの存在に親近感を覚えるようになるだろう。メディアには専門家を称する人々の主張内容を検証し、取捨選択するリテラシーが求められている。
 映画の結末において、リップシュタットは裁判に勝った。しかし、予想した通り、アーヴィングは裁判の正当性をも否認し、メディアで荒唐無稽なネッシー学説をまくしたてる。
 ネッシー学説を喝采する聴衆がいる限り、販売部数や視聴率あるいは広告収入を追い求めるメディアは、ネッシー学説を言論空間から追い出さないだろう。こうした現象を止められるのは、一般の人々だけだ。一般の人々の知的誠実さが、ネッシー学説に敢然とNOを突き付けられるか。社会の未来は、一般の人々にかかっている。(p.7)
 充実した一日が終わりました。さあそれでは帰りましょう。地下鉄有楽町駅に下りようとすると、眼前に北海道のアンテナ・ショップがあったので入店。今年の北海道旅行で購入していたく美味しかった町村農場特製バターを売っていたのには感激。さっそく購入、明日は美味しいバター・トーストが食べられます。
 地下鉄への階段のところにいたホームレスの方から、心優しい山ノ神が『ビッグイシュー』を購入。地下鉄の中で読ませてもらうと、今年刊行されたお薦め本が紹介されており、ウィリアム・メレル・ヴォーリズを描いた小説『屋根をかける人』(門井慶喜 角川書店)と『ジャック・プレヴェール詩集』(小笠原豊樹 岩波文庫)が目にとまりました。これは買いですね、家に着いたらすぐにインターネットで注文しましょう。
 そして池袋駅で途中下車して、東武デパート内にある「鼎泰豐」に入り、小籠包に舌鼓を打ちました。

 というわけで、良い絵、良い映画、良い本、美味しい食事に恵まれた、村上春樹氏曰く"小確幸(小さいけれど確固たる幸せ)"に満ちた一日でした。
by sabasaba13 | 2018-01-18 06:34 | 映画 | Comments(0)