2018年 02月 25日 ( 1 )

南方熊楠展 2

c0051620_1718741.jpg そして国立科学博物館へ、いやあ何十年ぶりでしょう。幸いというか、不幸にしてというか、行列はできておりませんでした。入場料を支払い、日本館一階の企画展示室へ。
まずは展覧会のコンセプトを紹介しましょう。
南方熊楠生誕150周年記念企画展 南方熊楠-100年早かった智の人-
 南方熊楠は、森羅万象を探求した「研究者」とされてきましたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきました。本展覧会では、熊楠の活動のキーアイテムである日記・書簡・抜書(さまざまな文献からの筆写ノート)・菌類図譜を展示。"熊楠の頭の中をのぞく旅"に誘います。同時開催企画展「地衣類―藻類と共生した菌類たち―」も是非ご覧ください。
 それではじっくりと拝見しましょう。なお嬉しいことに展示物の写真撮影は可能、そして展示物や解説をまとめた冊子をいただけました。ブンダバー、公立の博物館はこうでなくてはいけません。武器や原発に湯水のように金を投じるよりは、博物館・美術館といった文化的施設に潤沢な予算を配した方が、世の為人の為になるのにね。でも絶対にそんなことはしないであろう政府を多くの人たちが支持しているのだから仕方ありません。熊楠さんが見たら何と言うでしょうか。
 展示は六部構成となっていました。まず「1 熊楠の智の生涯」、幼いころから天才的な記憶力を発揮し、博物学や語学に優れていたという熊楠の生涯を概観します。幼いころから、和漢の百科事典や本草学書の筆写に精を出しており、中でも『和漢三才図絵』に出会って知識を集めることに大きな喜びを見出したそうです。実は、今読んでいる『歴史の話 日本史を問いなおす』(網野善彦・鶴見俊輔 朝日文庫)の中に、偶然ですがその話が紹介されていました。
 『和漢三才図絵』 寺島良安編著。江戸時代に刊行された、和漢古今にわたる事物を人物・器具・動植物などに分類した図説百科事典。南方熊楠が少年時代に三年かけて、これを筆写した話がある。(p.197)
 東京帝国大学予備門に入学するも落第、しかし博物学への憧れを捨てきれずに、アメリカへ渡って標本採集に熱中しました。25歳の時にイギリスに渡り、大英博物館図書室に籠って膨大な書物を読みあさり、民俗学や自然科学などの知識を収集していきます。雑誌『ネイチャー』などに投稿し始めたのもこの頃からですね。また亡命中の孫文とも交友関係をもちます。父の死を機に帰国、那智そして紀伊田辺に暮らしながら隠花植物の採集や論文執筆に明け暮れました。なお田辺時代に闘鶏神社宮司の娘・松枝と結婚、これ以後、充実した生活を送れるようになりました。昭和天皇への御進講の際に、キャラメルの大箱に入れた標本を献上したというエピソードはこの時代です。その同型の箱が展示されていました。また神社合祀反対運動に尽力したのもこの頃でした。そして盟友たちの他界に気落ちしつつ、1941年12月29日に彼も鬼籍の人となりました。享年70歳。
 彼の写真や手紙、大英博物館入館許可書など興味深い展示でしたが、何と言っても圧巻は「抜書」です。彼は、ロンドン在住時代と田辺在住時代に、様々な文献や聞いた話などを自分のノートに抜き書きしたものです。紙面を埋め尽くす文字、中には罫線に二行書き込んだもの、罫線を上へ下へ文字が溢れだしたものもありました。知識に対する熊楠の執念と愛を、ひしひしと感じさせてくれました。
 「2 一切智を求めて」では、絵具・描画道具入り採集箱や微細藻類プレパラート入れなど、熊楠使用のフィールドワークの道具類が展示されていました。
 「3 智の広がり」では、熊楠が収集し"隠花植物"(菌類・地衣類・大型藻類・微細藻類)を、熊楠の標本と現在の標本を対比しながら紹介しています。
 「4 智の集積-菌類図譜-」では、多数の菌類を集め、描写・記載した「菌類図譜」と、最近新しく発見された「菌類図譜・第二集」を、合わせてバーチャル展示していました。
 「5 智の展開-神社合祀と南方二書-」では、神社合祀に反対し、自然保護を訴える「南方二書」を紹介しています。そもそも神社合祀とは何か、解説文より転記します。
 明治政府は、1906年、神社合祀に関する2つの勅令を発布します。これは、町村合併に伴って複数の神社を一町村で一つに統合し、廃止された神社の土地を民間に払い下げるというものです。実は、払い下げられた土地の森林資源を売却し日露戦争(1904~1905年)の戦費の借金を返納するという経済的な目的がありました。貴重な生物をはぐくんだ鎮守の森が消えてしまう…。熊楠は、各界の有識者に支援を求め、反対運動を展開していきます。
 天皇や神々の権威を隠れ蓑にして臣民を支配しておきながら、国益のためにはその神々を弊履の如く打ち捨てる官僚たちの酷薄さと下劣さがよくわかります。熊楠は、東京帝国大学教授の松村任三に宛てた二通の手紙で神社合祀反対を訴え、これが柳田國男によって出版され、「南方二書」として世に知られることになりました。その重要な手紙の原本が展示されていました。
 解説文に「植物の全滅は狭い範囲から一斉に起こり、どんなに後でも回復しないことを自分は見てきたのだ」という彼の言葉が紹介されていましたが、長いフィールドワークの経験から、自然破壊の不可逆性についてよくわかっていたのですね。
 「6 智の構造を探る」では、代表作「十二支考・虎」のメモ書き(腹稿)から、熊楠の頭の中で、情報をまとめていく過程に迫ります。
最後に、最近発見されたという、熊楠を映した数十秒の映像が流されていました。残念ながら音声はなかったのですが、動いている南方熊楠を見られて感無量です。

 というわけで、小振りながらも充実した展示でした。会場で放映されていた、展示企画者・安田忠典氏(関西大学人間健康学部准教授)の言葉が心に残ります。
 熊楠は、キノコでも粘菌でもわらしべ長者の説話でも、とにかくたくさん集めようとしました。集めた資料を分析するよりも「どうだ、こんなに集めたんだ、凄いだろう」と無邪気に自慢します。楽しいですね。本来、学問には楽しさや喜びが伴うもので、熊楠の仕事を狭い意味での研究業績から評価するだけでは不十分なのかもしれません。また、資料についての価値判断を読み手にゆだね、できるだけたくさん紹介しようとするやり方は、現代のネット上での情報検索に近いといえるのではないでしょうか。
 なるほど、「喜ばしき学問」か。熊楠に惹かれる理由のひとつが、わかったような気がします。またできるだけたくさんの資料を集めて、後学の徒に益しようという姿勢は、わが敬愛する渋澤敬三にも通じるものがあります。『歴史の話 日本史を問いなおす』(網野善彦・鶴見俊輔 朝日文庫)から網野善彦氏の話を引用します。
 その点、渋澤(※敬三)さんは偉い人で、自分は学者ではないので-本当は大変な学者ですが-、後世の学者がどういう関心を持つかわからないから、自分は史料を選択しない、史料をできるだけ完全な形で漏れなくすべてを提供する、これが自分の生涯の仕事だ、ということを繰り返し言っています。実際に渋澤さんの主宰した日本常民文化研究所が長年やってきた仕事、刊行物は、基本的にすべてそういうものになっているんです。(p.143)
 さて、せっかく久しぶりに科博に来たのですから、少し徘徊しましょう。リニューアルされたため、以前に比べて展示がたいへん見やすく、分かりやすくなっています。昔のおどろおどろしい雰囲気も悪くはなかったのですが。学芸員さんの解説に熱心に耳を傾ける子どもたちの姿が印象的でした。そうそうこの建物、現日本館、旧本館は重要文化財なのですね。解説板があったので転記しておきます。
 日本館建物は、関東大震災による震災復旧を目的として昭和6年(1931)に完成した。ネオ・ルネサンス調の建物は、文部省大臣官房建築課の設計による。鉄骨鉄筋コンクリートで建設されるなど耐震・耐火構造にも注意が払われた。中央ホール上部などに使われているステンドグラスは小川三知のアトリエ製作で、日本のステンドグラス作品の中でも傑作といえる。また、建物の内外に使われている装飾性の高い飾りなども、戦後の建物には無くこの建物のみどころである。
 上から見ると、そのころの最先端の科学技術の象徴だった飛行機の形をしている。
 へー、このステンドグラスは小川三知の作品だったのか、おみそれしました。
 昼食は、上野駅貴賓室を利用したレストラン、「ブラッスリー・レカン」でいただきました。うーむ、値段の割には味はいま一つだったかな。せっかくここまで来たのだから、すこし歩いて「うさぎや」のどら焼きを購入。なんとも幸せな日曜日でした。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-02-25 07:56 | 鶏肋 | Comments(0)