2018年 03月 05日 ( 1 )

『デトロイト』

c0051620_19502188.jpg 先日、ユナイテッドシネマとしまえんで、山ノ神と一緒に映画『デトロイト』を観てきました。まずは公式サイトから引用します。
 1967年、米史上最大級の暴動勃発。街が戦場と化すなかで起きた"戦慄の一夜" 1967年7月、暴動発生から3日目の夜、若い黒人客たちで賑わうアルジェ・モーテルに、銃声を聞いたとの通報を受けた大勢の警官と州兵が殺到した。そこで警官たちが、偶然モーテルに居合わせた若者へ暴力的な尋問を開始。やがて、それは異常な"死のゲーム"へと発展し、新たな惨劇を招き寄せていくのだった…。
 そう、1960年代は、キング牧師とマルコムXによる公民権運動など、人種差別に反発する黒人の運動が激化した時代でした。(マルコムXは1965年に、キング牧師は1968年に暗殺) その背景には、ヴェトナム戦争・軍拡競争・アポロ計画による莫大な出費が、黒人をさらなる貧困へと追い込んだことによります。最近読んだ本から、いくつか引用します。
 …ジョンソンの続けている非道な戦争とアメリカ社会に与えるゆがんだ影響にうんざりする国民は増え続けた。黒人運動は、反乱と呼んでよいほど激しくなった。数年前から都市部を揺さぶっていた暴動は、ついに1967年の夏、それまで静観していた国民を立ち上がらせる。二日以上続く大規模暴動が25件、小規模暴動が30件勃発した。町は炎が上がり、血が流れた。ニューアークで26人、デトロイトで43人のアフリカ系アメリカ人が警官隊および州兵部隊に殺害された。(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』 オリバー・ストーン&ピーター・カズニック ハヤカワノンフィクション文庫 ②p.327~8)

 同時に、市民権運動そのものも、変化を見せ、黒人の不満は一段と募っていった。とくに北部の都市を中心に、激しい怒りが巻き起こった。焦燥と憎しみが広まる中で、これまでの伝統的な指導者は、わきにおしやられた。ハーレム、ローチェスター、ジャージー・シティ、フィラデルフィアのゲットーで暴動が発生し、やがてその火の手は、他の都市に広がった。ゲットーが焼け、燃える中で、これまでの市民権運動は終わりを告げはじめた。
 マルコムXのように、最も疎外され、最も傷ついた人びとが指導者として登場する。彼らは、法律上の差別ばかりでなく、アメリカ社会の構造そのものを攻撃したのである。問題は、黒人問題ではないのだ、と彼らは言った。問題は白人問題である。自分たちは、仲間入りしたいのではない。われわれは、出て行きたいのである。黒人救済計画など、笑い草だ。黒人社会がこのように変化する中で、白人権力社会との協力者と見なされた指導者たちは、やがてその信用を失っていくのである。(『ベスト&ブライテスト』 デイヴィッド・ハルバースタム 朝日文庫 中p.396)

 戦後世界の二大強国のあいだで科学技術の精華を競ったように見えたそのレースは、実際には、ミサイル技術の優劣を競う軍事競争であり、同時に大国間の国家威信をかけたつばぜり合いであった。20世紀後半には、国家間の科学技術の優劣は、国家の産業力・文化力の優劣であると同時に、軍事力と政治的発言力の優劣と見なされていたのだ。それこそが、金がいくらかかってもよいから人類の月面着陸は米国が先んじなければならないと叫んで、ケネディ大統領がアポロ計画を命じた本当の理由である。しかも、その華々しい宇宙開発競争の背後では、ソ連においては慢性的経済停滞で民衆の生活が犠牲にされていたのであり、他方、米国においても、60年代後半はいくつもの都市で黒人暴動が頻発していたように、大金をつぎ込んだアポロ計画のかげで黒人は差別と貧困のなかに放置されていた。(『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』  山本義隆 岩波新書1695 p.ⅶ)
 また、ヴェトナム戦争において、黒人が危険な最前線に送られたことも一因のようです。奇しくもデトロイト暴動が起きた1967年に徴兵を拒否した、プロボクシングの世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ(旧名カシアス・クレイ)が、こう語っています。
 ルーイヴィルではいわゆるニグロの人々が犬並みの扱いを受けているのに、なぜやつらは俺に軍服を着て、1万マイルも離れたところに行き、ヴェトナムの茶色の人々に爆弾や銃弾を浴びせろなんて言うんだ? もし戦争に行くことが2200万の俺の仲間に自由と平等をもたらすと思ったら、俺を徴兵するまでもないぜ。俺は明日にだって入隊するよ。だが、俺は国の法律かアラーの掟のどちらかに従わなければならないんだ。俺は自分の信念に従っても、何も失うものはないんだ。だから俺は牢獄に入るよ。俺たちは400年も牢獄暮らしをしてきたんだからな。(『モハメド・アリ その生と時代』 トマス・ハウザー 岩波現代文庫 上p.283~4)
 私の大好きな音楽シーンで言えば、チャールズ・ミンガスが黒人差別主義者のフォーバス知事を皮肉りからかった「フォーバス知事の寓話」を発表したのが1960年。公民権運動の愛唱歌となった「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」がサム・クックによって発表されたのが1964年、「自由になりたい」がニーナ・シモンによって発表されたのが1967年でした。

 前口上が長くなりましたが、そのピークとも言うべきデトロイト暴動をキャスリン・ビグローが映画化した作品です。何といっても、その迫真的なリアリティに圧倒されました。ところどころで挿入される実写フィルム、ぶれ、揺らぎ、傾くカメラ・ワーク。まるでその場に居合わせて暴動を目撃しているような臨場感です。黒人たちの、絶望的な怒りがびしびしと伝わってきます。
 事件のきっかけは、アルジェ・モーテルの一室で、ある黒人青年が面白半分におもちゃの拳銃を発砲したことでした。かけつけた白人警官たちは、実弾を撃った黒人が必ずいるという予断のもと、居合わせた黒人男性や白人女性を自白させるためにあらゆる手を使って追い詰めていきます。暴力、脅迫、侮辱、そのおぞましさには息を呑みましたが、レイシストの白人警官に扮したウィル・ポールターが圧巻の演技でした。そして…
 この映画のテーマは、差別と暴力だと感じました。その醜さとおぞましさを徹底的に描くことによって、アメリカから、いや世界から差別と暴力をなくしたいという監督の想いが伝わってきます。

 それにしても、アメリカの恥部を暴いたこの映画をつくり公開できたということは凄いことですね。敬意を表します。『明治維新150年を考える』(集英社新書)の中で、映画監督の行定勲氏がこう言われていました。
 映画は闇に光を当てて、そこに何が映っているか、それを観るものです。一番重要なのは闇であって、そこに手を突っ込んで切り開いていかないといけない。(p.144)
 アメリカには、そうした闇から眼をそむけない人びとがいて、それを許容する文化があるということだと思います。長文ですが、『「戦後80年」はあるのか』(集英社新書)から、内田樹氏の一文を引用します。
 アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。
 70年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、1975年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのサングラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは70年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。
 カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られているときに、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であったわけです。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。この人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。(p.58~60)
 さて、私たちは歴史の闇を見つめることができるのでしょうか。文化を復元させる力があるのでしょうか。関東大震災時における虐殺を描く映画がつくられたら、その証左の一つになると思うのですが。
by sabasaba13 | 2018-03-05 08:14 | 映画 | Comments(0)