2018年 07月 27日 ( 1 )

琉球の風

c0051620_2210221.jpg 先日、劇団東演による劇「琉球の風」を俳優座劇場で見てきました。沖縄に関する映画は、『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』、『戦場ぬ止み』、『標的の島 風かたか』、『沖縄 うりずんの雨』などけっこう見てきましたが、沖縄に関する演劇ははじめてです。なお山ノ神が所用のため、一人で見てきました。
 作・中津川章仁、演出・松本祐子、まずは公式サイトから、あらすじを引用します。
 東京の旅行代理店に勤める片岡誠也の元に、一本の電話が入る。代理店で企画している沖縄ツアーの実態について話を聞きたいという観光庁の秋本からの連絡だった。同僚・新城紗緒理が手がけるこの沖縄ツアーは即座に満員となり、定員を増やす騒ぎになっていた。しかし片岡は、紗緒理には純粋な観光ツアーではなく別な思惑があるのではと気にしていた。「沖縄の人間は基本的に基地に反対しているからなあー」と振ってみるのだが、「反対している人だけでなく、賛成している人も、無関心派も大勢いますよ」と取り合わない紗緒理…。東京生まれで東京育ちの片岡誠也、沖縄生まれで沖縄育ちの紗緒理の父(兄?)・新城芳郎、二人の出会いでやがて意外な事実が明らかになっていく…。
 沖縄に対して無知・無関心な都会の若者が、沖縄の現実に触れて変容していくという筋立てが斬新です。実は紗緒理が兄・芳郎と共に立案したこの「オール沖縄ツアー」は、フリータイムの時に、辺野古と高江における反基地運動に参加できるようになっていたのですね。何者かがそれを観光庁にリークし、慌てた観光庁が旅行代理店に中止の圧力をかけてくる。自由なのだから何をしてもよいと思うのですが、このあたりに政権の意図を忖度して非公式な圧力を市民にかける官僚の卑小さがよく描かれています。沖縄のことが気になりはじめた誠也は、友人の雑誌記者に誘われて訪沖し、沖縄の現実を見聞するとともにその観方が変わっていきます。この時に出会った知念晶男という人物が心に残りました。本心では米軍基地に反対なのですが、生活苦のためかつては機動隊員として運動を弾圧し、今では日雇い労働者として高江ヘリパッド建設に従事しています。金のために故郷や仲間を裏切った男の苦渋と自責と含羞を、星野真広が見事に演じ切っていました。まるで一人の生身の男と化した沖縄が、私たちヤマトンチュを見据えて「何も思わないのか、何も感じないのか」と詰問しているようです。これが演劇の醍醐味と凄みですね。
 実はこの晶男が、ツァーを中止に追い込むため、観光庁にリークした人物だったのです。反基地運動で挫折して東京を放浪していた高校の恩師・島袋孝雄(佐々木梅治)がこのツァーに参加することを知り、それをやめさせるための手段でした。東京で晶男に会った時に孝雄が発した、「何で沖縄だけがこんな目にあうんだ」という慟哭も忘れられません。
 結局ツァーは成立し、主人公・誠也の意識も変化し、めでたしめでたし。と思いきや最後に凄まじい戦闘機の爆音が轟き、幕となりました。「沖縄で、いま、何が起きているのかを忘れるな」という演出家のメッセージでしょうか。

 素晴らしい劇でした。とくに前述した知念晶男の姿によって、沖縄が押しつけられている差別や困難をリアルに体感することができたのが大きな収穫です。演出家の松本祐子はパンフレットの中で、次のように述べられています。
 2015年のある日、東演のプロデューサー横川氏から中津留章仁さんに沖縄問題について書下ろしをしてもらうから演出してくれないかと言われた時、正直困ったことになったなと思ってしまった。どの面下げて私のようなものが沖縄を語れるというのだろう。1609年から現在に至るまで、本土がかの地で身勝手に振り廻してきた事々の堆積はすさまじく、特に戦後の矛盾を沖縄に押し付けている結果は進行形で人々を苦しめている…そういう表向きの情報はある程度学習すれば得られるのだが、そんなものは当事者からしたら「ふざけるな」といいたくなるような無責任なものなのだ。
 私があの日感じたある種の恐怖を、多分、作家の中津留氏も感じていたのだと思う。だから彼は"沖縄に直面することをためらってしまう都会人"を作品の中心に据えた。日々の生活を摩擦なく穏便に過ごすことを良しとしている小市民を、その為には見ざる聞かざる言わざるでいることに疑問を抱かない小市民を中心に据えた。沖縄問題の中核を描く資格がない私たちは、沖縄問題も含めて全ての社会問題に鈍感になっているおのれの姿を描いたのだ。だから2016年の初演の稽古の間中ずっと、私は己の小市民性と向き合わなくてはならなかった。私は知らなかった、日本が戦後70年以上経っているのにこんなにもアメリカに支配されていることを。私は知らなかった、貧困家庭がこんなにも増えているなんて。私は知らなかった、時には新聞が事実無根のニュースを流すこともあることを。この作品と出会ったからって何かを知ったとは言えないのだけれど、せめて猿からの脱却を目指すしかないと思っていた矢先に、海の向こうではトランプという自国中心主義の大統領が選ばれてしまった。儲けることとプライドを誇示することが最大の目標のように見受けられる男を選ぶ小市民の群れを愚かだと思おうとしたのだが、日本ではもっと目をそむけたくなるような状況が続いている。
 そしてこの作品を再演することになった。一年半の歳月しか経っていないけれど、今私たちを取り巻く環境はより一層、なんでもありのひどいものになっているように思える。そしてそれを自覚するにつけ、この一年半、自分が如何に怠け者だったかを突き付けられるのである。知ろうとする努力を怠り、自分で考えることを止めることは、愚かな指導者を生み、結果は自分の幸せをも犠牲にしてしまうことをわかっているはずなのに、無為に時間を過ごしてきてしまったのではないか、そんな反省に苛まれる。小市民な登場人物たちが"知ることの痛み"を抱えながら紡ぐこの作品に、私もちりちりとした痛みを感じながら立ち向かっている。
 虐げられている少数派の人びとのことを知ろうとせず、考えようとしない、そうした知的怠惰があの禍々しい政権を延命させ、そしてこの国を底なしの無恥にひきずりこんだことを痛感します。

 最後に、知念晶男の苦渋を理解するための見事な論考がありますので、『無意識の植民地主義』(野村浩也 御茶の水書房)から長文ですが引用します。
 沖縄人の土地を暴力で強奪することによって建設が強行された米軍基地。それは、そこで農民として暮らしていた沖縄人から、生きる糧も住いもすべて奪いつくした。どうやって生きていけばよいのか。途方に暮れた沖縄人に米軍があてがったもののひとつ。それは、なんと、奪われた土地を軍事基地に変える仕事に従事させることであった。土地を強奪された者が、強奪した者のために、生命の糧を恵んでくれるはずの自分の土地を、みずからの手で、生命を奪う軍事基地に変えなければならない屈辱。土地を強奪された沖縄人のなかには、生きるために、そうするしかなかったひとも多い。生きるために、基地ではたらくしかなかったひとは多い。そして米軍人は、沖縄人が抵抗しようものなら、「首を切るぞ!」と脅かした。沖縄人は恐怖に震えた。職を奪われたら生きていけない。生命の糧を恵んでくれる自分の土地はもうないのだから。職を奪われることは、殺されるのも同然なのだ。よって、生きるためには、米軍という植民者に従うほかなかった。土地どろぼうに従うほかなかったのだ。
 これは、恐怖政治である。テロリズムである。土地を奪われた沖縄人の抵抗を抑え、軍事基地を安定的に維持するためには、沖縄人を恐怖させなければならない。そして、恐怖させるためには基地に依存させなければならない。依存させるためには沖縄人を自立させてはならない。
 右に述べたことは、直接的には、「日本復帰」前の沖縄の状況である。したがって、自己利益のために沖縄人を合州国に売り飛ばした日本人には、沖縄人を右のような状況に追いこんだ責任があるのだ。だが、日本人は責任をとるどころか、「日本復帰」後も、基本的に、右に述べたような恐怖政治=テロリズムによる支配の方法を変えようとはしなかったのである。
 恐怖政治=テロリズムは、「抵抗したら殺されるかもしれない」という「暴力の予感」を被植民者に喚起することによって機能する。重要なのは、暴力や死を予感させることなのだ。その点では、失業もほとんど同じである。職を奪って食えなくさせ、そのまま放置しておけば、そのうち確実に死ぬのだから。それは、直接殺す手間をはぶいた、いわば時間差殺人である。したがって、失業させることもまた暴力であり、死を予感させる暴力なのだ。
 沖縄の米軍基地は、恐怖政治=テロリズムによって維持されてきた側面が大きい。しかも、そこでの恐怖政治=テロリズムの手段は、前述した沖縄人の子どもの殺害をはじめとする直接の物理的暴力ばかりではない。失業等をめぐる経済的暴力もまた、テロリズムの手段としてきわめて効果的に運用されてきたのである。
 さて、職をあてがうことは、同時に、失業の可能性をつくりだすことでもある。また、米軍基地の職をあてがうことは、経済的に基地に依存させることであると同時に、失業によって経済的依存から排除される可能性をつくりだすことでもある。このような経済的依存と依存から排除される可能性のセットこそ、米軍基地の押しつけを維持するための恐怖政治=テロリズムが機能する基本的な条件なのである。
 沖縄の「日本復帰」を前後して基地労働者(軍雇用員)が大量に解雇された。「首を切るなら土地を返せ」という沖縄人の声に対して、日本国政府は、土地を返すことも他の十分な職を用意することもなかった。その一方で、米軍基地をそのまま押しつける見返りとして、「軍用地料だの補助金だの基地がひり落とす糞のような金」をあてがったのだ。つまり、米軍が実施してきた政策と同じように、基地の押しつけを継続したのみならず、事実上基地に経済的に依存させることをも継続したのだ。それは、米軍基地の押しつけを維持するための恐怖政治=テロリズムが機能する条件を保持することでもあった。したがって、在日米軍専用基地の75パーセントもの押しつけが現在まで維持されてきたのも、その帰結という側面が大きいといえよう。
 米軍基地の過剰な押しつけは、沖縄の経済発展を阻害する重大な要因でありつづけている。そして、観光以外の産業を日本国政府がまともに振興できなかったこともあって、「日本復帰」以降の沖縄の失業率は、つねに日本全国平均の約二倍に維持されてきた。このような経済状況が放置されれば、米軍基地関連やその他の日本国政府の経済支援に依存せざるをえなくなるのは当然である。ここで重要なのは、高失業率を維持しつつ同時に経済的に依存させることこそ、恐怖政治=テロリズムによって基地を押しつけるための絶好の条件だということなのである。
 第三章で述べたように、高失業率の数字を維持することによって、現在職に就いている大多数の沖縄人に対しても、いつか失業するかもしれないという恐怖をもたらすことが可能となる。そして、日本国政府は、基地の押しつけに「協力」するのであれば引きつづき経済的な支援を惜しまないが抵抗すればどうなるかわからない、という意味のメッセージ=恫喝をたびたび発してきたのである。したがって、失業や経済的困窮を恐怖する沖縄人ほど、日本国政府の恫喝に従うほかなくなっていくといえよう。すなわち、依存させ、恐怖させ、そして、基地の押しつけへの抵抗を抑えるのである。そして、このような政策を実践する日本国政府を構築した張本人は、いうまでもなく、ひとりひとりの日本人にほかならない。
 経済的に依存させることは、同時に、依存から排除される可能性をつくりだすことである。この排除の可能性が、「暴力の予感」としての恐怖を喚起する原動力となる。そこに、すかさず、「基地の押しつけに抵抗したらどうなるかわからないぞ!」という恫喝が加えられる。この恫喝のもたらす恐怖が、基地の押しつけに抵抗する力を、沖縄人から奪う効果を発揮するのはあきらかだ。沖縄人に基地を押しつけるための恐怖政治=テロリズムは、このようにして、今この瞬間も作動しつづけているのである。(p.204~7)
 そう、私たちがいま直面しているのもこのテロリズムです。
by sabasaba13 | 2018-07-27 06:29 | 演劇 | Comments(0)