2018年 08月 15日 ( 1 )

仁淀川編(28):佐川(15.8)

 それでは出発、申し遅れましたがこのあたりは上町といって風情のある建物が点在しています。白い漆喰壁となまこ壁が印象的なマルキュウ屋敷は、幕末~明治初期に建てられた旧竹村呉服店。
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 竹村家住宅は国の重要文化財で、江戸時代より造り酒屋として栄えた商家。徳川幕府の巡検使の宿としても使われたそうで、風格のある建物です。
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 清酒「司牡丹」の白壁の大きな酒蔵も見もの。土佐藩筆頭家老・佐川領主深尾氏に従って来た御酒屋が、1603(慶長8)年に創業した造り酒屋で、土佐を代表する日本酒です。
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 名教館は士分の教育に資した郷校で県指定文化財。
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 その近くにある洒落た洋館は、かつての須崎警察署の佐川分署で県下最古の木造洋館です。
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 内部を見学でき、いろいろな解説がありました。二つ紹介します。
自由民権運動と佐川
 憲法制定、議会開設、地租軽減などの要求を掲げた自由民権運動は、高知の立志社設立で広まりを見せます。佐川町出身の古沢滋は、民選議員設立建白書の起草に携わり、佐川でも明治11(1876)年に南山社が設立され、多くの自由民権運動家を輩出しました。
 牧野富太郎や水野龍なども運動に参加しており、牧野の回顧録によると、牧野らが公正社(夜学会)を結社した際、この建物に呼ばれ、警察の取り調べを受けたとあります。

選挙大干渉と佐川
 明治25(1892)年の第2回衆議院議員選挙の際、第1回選挙で民党(政府に対抗する勢力)に敗れていた政府は、選挙の大干渉を行います。
 自由党の総理である板垣退助の出身地・高知での干渉は特に激しく、民権派(自由党)と帝政派(国民党)の争いが加熱する中、この建物は高吾北地区の帝政派の指令所ともなりました。
 佐川の各地でも多くの暴力や流血事件が発生しますが、中でも明治25(1892)年1月29日に起こった斗賀野村野地(現在佐川町斗賀野村)での衝突は、国民党員(警官隊を含む)と自由党員の合計約400人が血で血を洗う大激戦を繰り広げ、数名の死傷者を出しました。
 へえー、牧野富太郎も自由民権運動に参加していたんだ。そしてこの建物の中で取り調べを受けたのか。後の特別高等警察による拷問とまではいかないでしょうが、それでもかなり暴力的な取り調べが行なわれていたのではないかな。すこし空気が冷たく感じられました。またあの有名な選挙干渉も、この佐川でも猖獗を極めていたことがわかりました。これに関して、最近読んだ『TN君の伝記』(なだいなだ 福音館書店)の中に、以下のような記述があったので紹介します。なお「TN」とは中江兆民のことです。
 このときの選挙では、しばらくのあいだ語りぐさになったほど、警察の干渉がひどかった。全国で、死者が二十五名、負傷者が四百名ちかくにものぼった。
 このとき弾圧を指揮したのが品川弥二郎だが、どういうわけか、この人の銅像が、いまでも東京の靖国神社にちかい、千鳥が淵のほとりに立てられている。政治家の銅像がすくない東京の街だが、えりにえって、この男の銅像が立っているのは、ぼくにはどうも皮肉なことのように思われる。彼は選挙が終わったあと、民党がふたたび多数をしめた第三議会で、この選挙干渉を非難する決議案が通る前に、それを避けるために辞職させられた。しかし、決議案は通った。この決議案は、政府の選挙干渉を天皇に上奏して、天皇の耳にいれろという要求だったのだが、松方内閣は、国会を一週間休会させることで、それに応じた。松方は、成立したばかりの議会を解散させようとした。もし、そうして、議会と政府が対決していたら、おそらくいまの日本がどうなっていたかわからない。だが、民党のほうも、二度の選挙で、すっかり貧乏になっていた。自分たちがはっきりと勝っていたのに、解散がおそろしかった。そこに弱みがあった。最後のところまで、松方内閣を追いつめながら、民党はたたかう気力を失っていた。(p.352~3)
 行政府による議会の軽視というのは、現今の安倍上等兵内閣の態度を見るまでもなく、この国の宿痾なのですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-15 07:06 | 四国 | Comments(0)