2018年 09月 02日 ( 1 )

仁淀川編(29):佐川(15.8)

 ある工場のシャッターには牧野富太郎スケッチによる「トサノミツバツツジ」が描かれていました。そして牧野富太郎ふるさと館に到着、生家跡地に建つ資料館で、彼の遺品や直筆の手紙、原稿等が展示されています。複製でしたが、「草もあり木もあればこそ吾れもあり」という俳句の色紙が心に残りました。
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 なお最近読んだ『南方熊楠』(講談社学芸文庫)の中で、鶴見和子氏が、牧野富太郎と南方熊楠の関係についてこう指摘されていたので紹介します。
 他方、日本の植物分類学の泰斗であった牧野富太郎は、南方の植物学上の業績には否定的であった。

 南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれまた世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが決して大なる植物学者では無かった。植物ことに粘菌についてはそれはかなり研究せられたことはあったようだが、しからばそれについて刊行せられた一の成書かあるいは論文かがあるかというと私はまったくそれが存在しているかを知らない。…
 南方君が不断あまり邦文では書かずその代わりこれを欧文でつづり、断えず西洋で我が文章を発表しつつあったという人があり、また英国発行の"Nature"誌へも頻々と書かれつつあったようにいう人もある。按ずるに欧文で何かを書いて向こうの雑誌へ投書し発表した事は、同君が英国にいられたずっと昔には無論必ずあった事でもあったろうが、しかし今日に至るまで断えずそれを実行しつつ来たという事は果たして真乎、果たして証拠立てられ得る乎。


 南方がかつて知人を介してある植物の名称を牧野に尋ねたことがあったから、自分は南方の師であるという。牧野は田辺町にいったことがある。師が自分の住む町にきていれば、弟子の方から挨拶にくるべきものを、南方は牧野に礼を尽さなかった。そこで牧野は、「何にも吾れから先きに進んでわざわざ先方へ足を運ぶ必要は決して認めないとの見識(ハヽヽヽ)でとうとう同君の門を敲かなかった」。
 皮肉な文章であるが、自分の感情を正直に出している点がおもしろい。アカデミーの学者が、南方をどのように評価していたかをしるための一つのよい見本といえよう。それだけではない。外国語で自説を国外で発表した日本の学者が、日本のアカデミーから、どのような仕返しをうけたか。そのことがよくわかる文章である。この中で、南方が、『ネイチャー』誌その他に帰国後も英文の文章を投稿していたというのはウソだろうと疑っている箇所についていっておきたい。…南方は、『ネイチャー』には1893年から1914年まで、『ノーツ・エンド・クィアリーズ』には1899年から1933年まで、つづけて英文の文章を発表している。ある時は、同じ号に、二つも三つも書いている時もある。合計すると、帰国後のほうが、在英中よりも投稿数は多いのである。わたしのような浅学の者が、ちょっと調べればすぐわかることを、どうして牧野富太郎のような大学者は、調べもせずに、他人を悪しざまに、しかもその人が死んでしまって、反証があげられないことを承知のうえで、罵言するのであろうか(牧野のこの文章は、1942年2月号の文芸春秋に掲載された)。しかし、こういうのも公平ではないだろう。牧野はすでに1957年に没したのだから。(p.64~6)
 牧野富太郎の、あまり人口に膾炙されていない一面を教えてくれるエピソードです。さきほど紹介した「赭鞭一撻」の中に、「6、洋書を講ずるを要す (和漢書の外に洋書も読み理解し、後世に我々が世界の最先端であるべく努めるべきである)」という一文がありました。しかし思うようにならず、西洋の学問に対する劣等感や苛立ちや焦りがあったのではないでしょうか。それを熊楠にぶつけたような気がします。偉大な植物学であることには変わりはないのですが。
 余談ですが、牧野富太郎は1926(大正15)年、野趣豊かであった東京・大泉の地に居を構え、1957(昭和32)年に満94歳の生涯を終えるまで、自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切にしました。現在、「牧野記念庭園」として公開されており、先日自転車で訪れてきました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-02 07:03 | 四国 | Comments(0)