部屋で食休みをし、午前九時ごろ宿を出発。山際の坂道をのぼっていくと、「国道439」という道路標識がありました。ここも「神楽ロードよさく」だったんだ。

すこし歩いていくと、茶畑と緑茶加工施設がありました。

さらにのぼっていくと大渡ダムや仁淀川や茶霧(さぎり)湖を見晴らせるようになります。荷台に二人の若者を乗せた軽トラックが走り抜けていきましたが、祭の準備でしょう。
久米島でも同じ光景をみた記憶があります。道路交通法違反でしょうが、固いこと言いっこなし。すこし先に「道の記 勤王志士脱藩の道」という解説板がありました。

後学のために転記します。
この仁淀村観光センター付近は地名を森の越といい、古来より近郷の交通はもとより、伊予・土佐の交易の道として利用されていた。
仁淀村史には、養老2年(718年)ころまでは、久万官道も通っていたとの記述もある。又土佐勤王の志士脱藩の道として知られ、土佐勤王党那須信吾は、幕末の文久2年(1862)3月26日坂本龍馬、沢村惣之丞の梼原越え脱藩の際、養父俊平と共にその案内をした後、翌4月8日に時の参政吉田東洋を帯屋町で暗殺。那須信吾、大石団三、安岡嘉助らは伊野より御嶽を越え、この地を通り脱藩、那須信吾は脱藩の道筋を次のように書いている。「(前略)大平通り、御嶽絶頂に到り候ところ、谷々の桜花、高根の残雪と艶を競い咲き乱れ候らえども、無我無心に向(さき)を急ぎ、ゆかり有る森村に下り着き候えども、すべて人家をも叩かず、干飯(ほしいい)を喫(と)り、高瀬村を過ぎり、別枝に到り徳道の関を抜け沢渡りより船渡りし、黄昏前、漸く久万山の内。岩川に付き、止宿仕まつり候。(後略)」 龍馬脱藩を助けた信吾は、その翌年天誅組に参加して吉村寅太郎らと行動を共にし、山和鷲家口の戦いで闘死している。その翌年俊平は、禁門の変で京都境町門に死んでいる。龍馬脱藩の成功の裏には、国事のために自分の命をも惜しまないこのような道案内者があったのである。
この道を龍馬が歩いたのか、感無量です。蛇足ですが、これまで龍馬関係の史跡にいろいろと出会ってきました。
寺田屋、
海軍操練所跡、
幕末志士葬送の道、
千葉さな子の墓、
誕生地の碑、
龍馬像、
浜川砲台、
いろは丸展示館、
延壽王院、
亀山社中跡、
御手洗、
「竜馬がゆく」碑、
新婚旅行の地、
宿泊所跡、
下関、よろしければご笑覧ください。
本日の一枚です。