2019年 03月 18日 ( 1 )

奥日光編(5):奥日光(15.10)

 イタリア大使館別荘に向かう途中で、イギリス大使館別荘の整備し工事をしていました。中禅寺湖畔には、各国大使館の別荘が蝟集していたのですね。当時の日光には中禅寺湖畔に数ヵ国の大使館別荘があり、「夏には外務省が日光へ移る」といわれたそうです。今では整備も終わり、公開されています。わが敬慕するイザベラ・バード女史も滞在し、友人あての手紙に「山荘から眺める風景の素晴らしさ」を綴っているそうです。いつか訪れてみたいなあ。

 後日談。朝日新聞「be」(2016.5.14)に載った「みちのものがたり」という記事に、以下の記述がありました。
 1872(明治5)年3月、まだ雪が残るこの寂しい山道を、奥日光を目指して歩く外国人青年がいた。後に駐日英国公使となる書記官アーネスト・サトウ(1843~1929)だ。
 1872年、奥日光を旅した後、サトウは英字新聞に日光案内記を連載した。3年後には英文では初の『日光ガイドブック』(ジャパン・メイル社)を出版。すでに有名だった箱根を引き合いに、中禅寺湖をこう絶賛している。「箱根の湖よりずっと絵のように美しい」 外国人として奥日光観光の口火を切っただけでなく、ほかの外国人に、その魅力を伝える役割も担った。
 それに応じ、多くの外国人が奥日光を訪れ、魅了されたことは、様々な文章から今に伝わる。たとえばベルギー公使夫人メアリー・ダヌタンは、アルプスの名勝を連想したと日記に書き留めている。「イタリアのコモ湖の風景が私の心の中に浮かんできた」…
 この湖畔の外交官らの別荘ブームを先導したのもサトウだった。日本を一時離れた後、95年に全権公使として12年ぶりに赴任したサトウは翌年、最も眺望が良い湖の南岸に別荘を建てた。英国人法律家に続く別荘だった。この公使時代の約5年間に、サトウは奥日光を31回訪れ、滞在期間はのべ218日に達した。…
 中禅寺湖に浮かべたボートに初老の男と、学生服の青年が乗った一枚の絵が残っている。サトウは日本人女性の武田兼と結婚し、2男1女をもうけた。描かれた二人は、サトウとその次男の姿だ。
 日本の後、清国の公使に転任したサトウは1906年、その職務を終えて英国に戻る途中に立ち寄ったのが、最後の日本訪問となった。船が出航延期になると、サトウは次男と連れ立ってつづら折りを登り、奥日光に向かった。絵はその1シーンだ。
 次男とは、日本山岳会の創始者の一人として知られる武田久吉(1883~1972)。サトウの勧めで英国へ留学して博士号を取り、尾瀬の高山植物保護に力を尽くして、「尾瀬の父」とも呼ばれている。
 「父は周囲の好奇な目から私たちを守ろうと英国人だった祖父の話を一切しなかった」。そうふり返るのは、久吉の孫の林静枝さん(86)だ。自分が外国人の孫であることを知ったのは、大学時代に戸籍を取り寄せてから。その後で母に、祖父が奥日光を愛した英国外交官だったことなどを教えられた。
 「サトウが険しい中禅寺坂を何度も往復し、山歩きと植物採集への情熱を傾けたことは、父にしっかりと受け継がれていたのですね」
 『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の著者、アーネスト・サトウの知られざる顔ですね。だから人間は面白い。
by sabasaba13 | 2019-03-18 09:54 | 関東 | Comments(0)