2019年 04月 01日 ( 1 )

ロ短調ミサ

c0051620_21431282.jpg 山ノ神の知人が「東京・カンタータ・コレギウム」という合唱団に入っており、今度J・S・バッハの「ロ短調ミサ」を演奏するそうです。同合唱団のホームページに載っていた紹介文です。
 私たちは、バッハのカンタータという古今東西最高の音楽の宝石箱の蓋を開けて楽しみたいと思っている、主にアマチュアの楽器と歌の有志が集まって2013年秋に活動を始めた団体です。
 オーケストラと合唱が常に一緒に練習しながら、音楽を築いていく楽しみを分かち合う、というのが私たちの望みです。
 その意気やよし、ですね。カール・リヒターとミュンヘン・バッハ管弦楽団が演奏したCDは持っていますが、実演は聴いたことがありません。フランツ・リスト曰く「ロ短調ミサは、教会音楽のモンブランである。西洋音楽では、これ以上登るべくもない」。この宝石箱のような大曲に、東京・カンタータ・コレギウムのみなさんがどう挑むのか、楽しみです。
 桜の蕾もふくらみはじめた弥生好日、四ツ谷駅から徒歩十分ほどのところにある紀尾井ホールで、山ノ神と待ち合わせしました。余談ですが、このあたりは1878(明治11)年5月14日に、内務卿大久保利通が不平士族6名によって暗殺された事件、いわゆる「紀尾井坂の変」が起きたところです。近くの清水谷公園には「贈右大臣大久保公哀悼碑」という大きな碑があります。
 閑話休題。客席で山ノ神と落ち合いパンフレットを読んでいると、代表の山本浩士氏が書かれた「ロ短調ミサ」についての解説が載っていたので転記します。
 晩年のバッハは、あるジャンルの音楽を記念碑的、集大成的な大作に仕上げて出版する、ということに執着していたように思われます。「ドイツ・オルガン・ミサ」の通称で知られるオルガン音楽の大作、「ゴルトベルク変奏曲」、「フーガの技法」といった大作が作られ、出版にこぎ着けています。ミサ曲ロ短調も、バッハが満を持して放つ教会音楽の金字塔と考えてよいのではないでしょうか。バッハはこの作品を出版したかったかもしれません。
 この作品は、過去に書いた作品を集めてそれらを入念に書き改めて、部分的には新しく作曲しつつ全曲を構成したものです。結果的に非常に大規模な作品になり、全曲を実際の礼拝に使用するのは不可能のようですが、ニ長調で全体が統一され、クライマックスに向けて声部が6声、8声と増えて行き、前半の「Gratias agimus tibi」の音楽が終曲「Dona nobis pacem」で繰り返されるという、全体の構造的な配慮も行き届いており、バッハが巨大な作品を目論んでいたことは明白です。
 やがて合唱団と合奏団、そして識者の大島博氏が登場しました。大島氏はE.ヘフリガーやD.フィッシャー・ディースカウに学んだテノール歌手で、バッハを中心とする宗教音楽の分野でも活躍されています。そして演奏が始まりました。
 プロフェッショナルのような卓抜な演奏はもちろん望むべくもありませんが、この大曲・難曲を歌える喜びがしみじみと伝わってくるような好演でした。多忙な仕事の合間をぬって猛練習をされたのでしょう、敬意を表します。音程がずれるヴァイオリン、ハイトーンが出ないトランペットにはハラハラさせられましたが、だんだん調子が戻ってきたので一安心。
 それにしても何と凄い曲なのでしょう。声楽、器楽、独唱、合唱、独奏、合奏などさまざまな演奏形態を包摂し、ポリフォニー、フーガ、カノンなどの技法を駆使して、神の栄光と音楽の素晴らしさを歌いあげる。J・S・バッハという偉大な音楽家の集大成です。中でも好きなのは、第五曲の「Laudamus te」です。ソプラノによるアリアにソロヴァイオリンがからむ、華やかな美しさにはうっとりとします。終曲の「Dona nobis pacem」の荘厳さにも心打たれます。"Dona nobis pacem(われらに平安を与えたまえ)"、今だからこそ、世界中の人びとと声を合わせ心を一にして歌いあげたいものです。

 追記です。最近読んだ『音楽放浪記 世界之巻』(片山杜秀 ちくま文庫)の「1 バッハの罪?」の中に、次のような一文がありました。
 繰り返せば、バッハを生み育てたブルジョワ精神とは、あくまでお高くとまった精神だった。それは物質的にも精神的にもそれなりに高級なものを求めたし、キリストの内面すら見渡せるほどの高みに立ちたいとさえ願った。バッハの、今にしてなお高邁とも抽象的とも聞こえている音楽は、そうした時代精神の音楽的表現にほかならなかった。
 なら、その精神は何にたいしてよりお高くとまろうとしたのか。それはむろん、前時代的民衆にたいしてである。近代未満というか中世的な愚かしい民衆、宇宙や世界について哲学的思惟をめぐらすことなど考えもつかぬ鈍なる民衆、神や神の子となればただただ人間には想像もつかぬ超越的存在と思って拝跪し、捧げ物でも並べ下品な祭りを始めるのが落ちの野蛮な民衆…。そうした存在から少しでも距離をおき、高きに上りたいと願うところに近代ブルジョワ精神の原動力があった。ようするにその精神は、下等なる民衆の土俗的領域を恥ずかしいと切り捨て、いっぽう、常人には手が届かぬと思われてきた上等なる神の領域をバッハの受難曲でお手軽に鑑賞できるまで切り下げることで、人間を自信みなぎる存在と位置づけるのに成功し、そこから人間中心、人間万能の近代世界を切り拓きはじめたのである。(p.15~6)

by sabasaba13 | 2019-04-01 06:24 | 音楽 | Comments(0)