2019年 05月 20日 ( 1 )

かもめ

c0051620_913673.jpg アントン・チェーホフの戯曲や短編小説は文庫でよく読んだのですが、実際の演劇は見たことがありません。常々、彼の脚本による舞台を見てみたいものだと思っていたのですが、ようやくその思いが叶いました。新国立劇場の芸術監督・小川絵梨子氏と演出家・鈴木裕美氏が全キャストをオーディションで選考して、『かもめ』を上演するそうです。小川氏は、作品を中心に据え置いて、作品に必要な俳優と出会うためだと言っておられますが、たいへんなご苦労だったでしょう。これはぜひ見てみたい。山ノ神を誘って、初台にある新国立劇場で観劇してきました。なおイギリスの劇作家・トム・ストッパードによる英訳版を翻訳して使用していますが、小川氏によると、リズムが良く会話体が多いというのがその理由です。まずはあらすじを紹介します。
 ソーリン家の湖畔の領地。彼の妹である女優のアルカージナと愛人の小説家トリゴーリンが滞在している。アルカージナの息子コンスタンティンは恋人のニーナを主役にした芝居を上演するが、アルカージナは芝居の趣向を揶揄するばかり。コンスタンティンは憤慨しながら席を外すが、アルカージナは、ぜひとも女優になるべきだ、とニーナをトリゴーリンに引き合わせる。ニーナは、トリゴーリンに名声への憧れを語り、徐々にトリゴーリンに惹かれていく。コンスタンティンは自殺未遂を引き起こし、さらにはトリゴーリンに決闘を申し込むが、取り合ってすらもらえない。モスクワへ戻ろうとするトリゴーリンに、ニーナは自分もモスクワに出て、女優になる決心をしたと告げ、二人は長いキスを交わすのだった。
 2年後、コンスタンティンは気鋭の作家として注目を集めるようになっている一方で、ニーナはトリゴーリンと一緒になったものの、やがて捨てられ、女優としても芽が出ず、今は地方を巡業している。コンスタンティンがひとり仕事しているところへ、ニーナが現れる。引き留めるコンスタンティンを振り切り、再び出て行くニーナ。絶望のなか、部屋の外へと出て行くコンスタンティン。そして…
 さすがに自らこの舞台にあがりたいと望んだ俳優のみなさんたち、熱気にあふれる演技でした。それにしても摩訶不思議な劇です。主人公が誰なのか、よくわからない。悲劇なのか、喜劇なのか、よくわからない。幾重にも連なる一方的な恋愛。自分のことは雄弁に語るのに、人の話を聞こうとしない登場人物たち。想像力をかきたてる衝撃的なラスト・シーン。
 『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』(光文社古典新訳文庫)の書評でも紹介したのですが、チェーホフの不思議な魅力を読み解いた訳者・浦雅春氏の解説が秀逸なので再掲します。都会に住む花形作家であるという事実に居心地の悪さを感じ、何かというと脚を引っ張り合う気取った文学仲間にも馴染めず、底意地の悪い批評家たちに嫌悪感を覚えていたチェーホフは、そのような文学的な垢を洗い流すために流刑地・サハリンへと旅行をしました。浦氏によると、チェーホフにとってサハリンでの体験は大きな衝撃だったようです。閉ざされた流刑地サハリンにおいて、彼はロシア自体が「閉ざされた」サハリン島にほかならないこと、いや人間の存在そのものが「閉ざされた」ものであることを発見します。その結果、精神病棟に、屋敷に、自分の殻に、狭隘な考えに閉じ込められた人物たちが彼の戯曲にしばしば登場するようになります。
 そして、幼い少女が何の罪の意識もなく売春に走り、人間と家畜がひとつ床に雑居するサハリンの言語を絶する現実に、チェーホフは「あらゆるものを意味づける神=中心の喪失」を再確認することになります。彼は、それを「人間の条件」として受け入れる眼を獲得しました。その結果、彼の戯曲からは、主人公の視点によって成立する世界がなくなります(「主人公の喪失」)。事物、人間、思想、思念がすべて等距離にながめられる起伏のないのっぺりとした空間。意味づける中心がない世界と、自己に閉じ込められた個人、よってそこには会話は成立しません。よってチェーホフ劇は、累々たる言葉の屍が積み重なる「ディスコミュニケーションの芝居」となります。しかし浦氏曰く、それはコミュニケーションへの渇きにほかならない。言葉にはならないけれど、誰かにわかってもらいたい、きっとわかってくれるはずだ、それはもはやコミュニケーションではなく「祈り」に近い。ただその切なる願いも、チェーホフは醒めた目で突き放してしまいます。『かもめ』のラスト・シーンのように。
 “累々たる言葉の屍”がより積み重なる今だからこそ、チェーホフの芝居は人を惹きつけるのかもしれません。『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』もぜひ観てみたいものです。
 以前に、「クロアチアの貴婦人」と呼ばれるリゾート地・オパティアで、チェーホフの胸像を見かけました。よろしければご笑覧ください。
またしこしこと集めてきた、チェーホフの言葉も紹介します。
 小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である。

 君は人生とはなんぞやと訊ねてきているが、それは、ニンジンが何かと訊ねるのと同じことだよ。ニンジンはニンジンであって、それ以上のことはわからない。

 神には脇にいてもらおう。いわゆる偉大な進歩的な理想には脇にいてもらおう。人間からはじめよう。それが誰であれ―主教、百姓、百万長者の工場主、サハリンの徒刑囚、食堂の給仕であれ―人間に対して優しくし、思いやりをもとう。人間を尊敬し、憐れみ、愛することからはじめよう。それなしにはなにもはじまらない。

 世界はすばらしい、ですが、ただ一つすばらしくないものがある、それはぼくらです。

 過ちを犯すよりは、だまされている方がいいのだ。

 欺瞞こそ生存競争で最も確実な期待できる手段である。

 風邪を引いても世界観は変わる。ゆえに世界観とは風邪の症状だ。

 嘘を吐いても、人人は信じる。ただ権威をもって語れ。

by sabasaba13 | 2019-05-20 07:35 | 演劇 | Comments(0)