2019年 06月 28日 ( 1 )

壁と卵 2

 インターネットでJNNニュースを読んでいたら、下記の記事がありハッと息を呑みました。(2019.6.22 13:06配信)
香港のデモ隊、警察本部を16時間包囲

 香港で政府が逃亡犯条例の撤回を明言しないことなどに抗議し、警察本部を包囲していたデモ隊は、22日未明までにいったん解散しました。しかし、混乱収束の見通しは立っていません。
香港の警察本部庁舎の壁やガラスにはデモ隊が投げた卵の跡が無数に残っていて、あたり一帯では卵の腐った臭いが漂っています。
 22日朝、警察本部ではデモ隊が設置したバリケードの撤去や庁舎に書かれた落書きをビニール袋で隠す作業が行われました。
 香港で21日、学生団体など数千人が参加するデモがあり、デモ隊は立法会前の道路を封鎖したあと、警察本部庁舎を22日未明まで16時間にわたり包囲しました。デモ隊は、今月12日の大規模デモの際、暴動の疑いで逮捕された若者たちの釈放などを訴えました。
 香港では来月1日にも大規模デモが計画されていて、混乱が収束する見通しは立っていません。
 “デモ隊が投げた卵の跡”… これは2009年2月に村上春樹氏がエルサレム賞を受賞した時のスピーチで使われたメタファー、「壁と卵」に関連するのではないか。『雑文集』(新潮社)から、その一部を引用します。
 ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。これは私が小説を書くときに、常に頭の中に留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。
 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
 そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
 さて、このメタファーはいったい何を意味するか? ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。
 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。
 私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。(中略)
 私がここで皆さんに伝えたいことはひとつです。国籍や人権や宗教を超えて、我々はみんな一人一人の人間です。システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵です。我々にはとても勝ち目はないように見えます。壁はあまりに高く硬く、そして冷ややかです。もし我々に勝ち目のようなものがあるとしたら、それは我々が自らの、そしてお互いの魂のかけがえのなさを信じ、その温かみを寄せ合わせることから生まれてくるものでしかありません。
 考えてみてください。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれがありません。システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
私が皆さんに申し上げたいのはそれだけです。(p.77~80)
 その後、『香港 中国と向き合う自由都市』(倉田徹/Cheung Yuk Man 岩波新書1578)という本を読んで、2014年に民主化を求めて香港で起きた雨傘運動において、この「壁と卵」というメタファーがたびたび引用されたことを知りました。また雨傘運動の最中にベルリンで行なわれた「Welt prize」受賞式スピーチでは、香港の若者にエールを送り励ましたそうです。こういうスピーチです。
 1989年にベルリンの壁が崩壊した時、ほっとしたのを覚えています。「冷戦は終わった」とつぶやきました。「世界はもっと平和で前向きになる」。世界中の多くの人が同じように感じたと思います。
 でも悲しいことに、安堵の感覚は長く続きませんでした。中東では紛争が絶えず、バルカン半島で戦争が起き、テロ事件が次々と発生。そして2001年にはニューヨークの世界貿易センターへの攻撃がありました。より幸せな世界への私たちの希望は、あえなく崩れました。
 小説家の私にとって、壁は常に重要なモチーフです。小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では、高い壁に囲まれた架空の町を描きました。いったん入ると、二度と出られないような町です。小説「ねじまき鳥クロニクル」の主人公は、井戸の底に座り、厚い石の壁をすり抜けて別の世界に行きます。
 2009年に(イスラエルの文学賞)エルサレム賞を受けた時、私はエルサレムで「壁と卵」と題したスピーチをし、壁と、それにぶつかって壊れる卵について話しました。石の壁を前に、なんと私たちは無力だろうか。私がスピーチをしていたまさにその間も、(パレスチナ自治区)ガザでは激しい戦いが続いていました。私にとって壁は人々を分かつもの、一つの価値観と別の価値観を隔てるものの象徴です。壁は私たちを守ることもある。しかし私たちを守るためには他者を排除しなければならない。それが壁の論理です。
 壁はやがてほかの論理を受け入れない固定化したシステムとなります。時には暴力を伴って。ベルリンの壁は間違いなく、その典型でした。
 世界には多くの種類の壁があります。民族、宗教、不寛容、原理主義、強欲、そして不安といった壁です。私たちは壁というシステムなしには生きられないのでしょうか。小説家にとって壁は突き破らなければならない障害です。例えて言えば、小説を書くときに現実と非現実、意識と無意識を分ける壁を通り抜けるのです。反対側にある世界を見て自分たちの側に戻り、見たものを作品で詳細に描写する。それが、私たち小説家が日々やっている仕事なのです。
 フィクションを読んで深く感動し、興奮するとき、その人は作者と一緒に壁を突破したといえます。本を読み終えても、もちろん基本的には読み始めたときと同じ場所にいます。取り巻く現実は変わらないし、実際の問題は何も解決していません。それでも、はっきりとどこかに行って帰って来たように感じます。ほんの短い距離、10センチか20センチであれ、最初の場所とは違う所に来たという感覚になります。そういう感覚を経験することこそが、読書に最も重要で欠かせないことだと考えてきました。
 自分は自由で、望めば壁を通り抜けてどこへでも好きな所へ行けるという実感です。私はそれを何よりも大切にしたい。そういう感覚をもたらすことができる物語をできるだけたくさん書いて、この素晴らしい感覚をできるだけ多くの読者と分かち合いたいのです。
 ジョン・レノンがかつて歌ったように、私たち誰もが想像する力を持っています。暴力的でシニカルな現実を前に、それはか弱く、はかない希望に見えるかもしれません。でもくじけずに、より良い、より自由な世界についての物語を語り続ける静かで息の長い努力をすること。一人一人の想像する力は、そこから見いだされるのです。
 たとえ壁に囲まれていても、壁のない世界を語ることはできます。その世界は自分の目で見えるし、手で触れることだってできる。それが大事な何かの出発点になるかもしれません。2014年のここベルリンは、そんな力についてもう一度考えるのに最適な場所です。
 今まさに、壁と闘っている香港の若者たちにこのメッセージを送りたいと思います。
 おそらく、村上氏のエールを心に刻み、香港政府とその背後にいる中国政府という固く大きな壁に、かけがえのない魂とその温かさの象徴である卵を投げつけたのだと想像します。
 そしてこれは、日本に、世界に向けたメッセージではないでしょうか。「あなたはどちらの側に立ちますか? 壁、それとも卵?」 その答えは、7月21日の参議院選挙で出しましょう。「どうでもいいや/関心ないね/何も変わらないさ」と言って壁の一部になってしまう人の少なからんことを。
by sabasaba13 | 2019-06-28 06:20 | 鶏肋 | Comments(0)