2019年 07月 30日 ( 1 )

2019年参議院選挙 2

 今回の参議院選挙で憂慮したことが、投票率の低さに加えてあと三つあります。

 一つ目。当選した参議院議員における女性の割合が、相も変わらず低いこと。当選者124人中、女性は28人、つまり約23%しかいません。四人に一人以下という体たらくです。中でも政権与党の低さが際立っています。自民党は57人中10人(約18%)、公明党は14人中2人(約14%)でした。政府が唱える「男女共同参画社会」など口先だけ、些末な決定には女性を参加させるが、国策を決める国権の最高機関からは女性を(目立たぬように)締め出すつもりでしょう。なお当選議員における女性の比率が高かったのは、立憲民主党の17人中6人(約35%)、共産党の7人中3人(約43%)でした。

 二つ目。参院選候補者の応援演説をする安倍上等兵にヤジを飛ばした人を、警察官が排除した事件です。これは二回起きています。7月15日、JR札幌駅前で、聴衆の男性が演説中の首相に「安倍やめろ、帰れ」と連呼。別の場所の女性も「増税反対」と叫びました。警官数人が2人をそれぞれ取り囲み、身体をつかんで後方へ連れていった事件。もう一つが7月18日、大津市のJR大津京駅前で応援演説をしている首相にヤジを飛ばす男性を、警備の警察官らが会場後方で囲んで動けなくした事件です。警察が法的根拠もないまま、主権者が為政者に抗議する声を奪う。まともな民主国家だったらあり得ない、許しがたい暴挙です。
 この事件が起きた理由は、二つ考えられます。まず官邸からの有形無形の指示か圧力があった。あるいは警察が忖度(kiss ass)して独自の判断で起こした。再発防止のためにも、徹底した調査報道で真相を明らかにするのがジャーナリズムの使命です。期待しています。なお北海道警は、ヤジが公職選挙法違反(選挙の自由妨害)にあたる「おそれがある」としていましたが、現在「事実確認中」と見解を変えたそうです。おそらく右往左往しながら、いつもの手でみんなが忘れるのを、息をひそめて待っているのでしょう。
 いずれにせよ、官邸がすぐにこの事件に対して批判や非難をしていない以上、首相がこの暴挙を黙認していることは明らかです。もうこれだけで自民党を歴史的な惨敗に追い込むのが主権者の責務だと思うのですが、そうはなりませんでした。無念です。

 三つ目。これが最も重要で深刻な事態だと考えますが、若者の投票率の低さです。全体の投票率は48.8%でしたが、年齢別では、18歳が34.68%、19歳が28.05%。嗚呼、なんたるちあ。煎じ詰めたところ、政治に対する無関心に起因すると思いますが、海外の識者も日本の若者のアパシーには驚いたようです。例えば、雨傘運動で中心的役割を果たした学生団体「学民思潮」メンバーの周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。
 また、ベネトンの写真家トスカーニが、原宿で日本の若者200人と話した結果こう語ったそうです。
 世界中でこれほど悩みもなく生きているのは彼らだけではないか。そして彼らは社会にも世界にもまったく関心がないし、なにも知らない。私には、彼らが天使に見えてきた。その天使は、これからわれわれが迎えようとしている悲劇を予告する天使のようだった。
 「政治とは、社会に対する価値の権威的配分である」という、D.イーストンの有名な定義がありますが、若者はなぜ"社会に対する価値の配分"に関心がないのか。若者たちが政治に無関心なまま社会の主軸になっていけば、投票率も低迷し(30%前後!?)、組織票をもつ自民党・公明党が権力の座に居座り続けるという悪夢を見ることになります。このことについては、日本の未来のためにも本気で考えなければなりません。
 と思っていた矢先に出会ったのが、yahooニュースで掲載されていた室橋祐貴氏(日本若者協議会代表理事)の意見です。氏は、若者には、民主主義の経験がない、つまり自分が参加することで状況を変えた経験がないということを挙げられています。長文ですが、重要な指摘だと思いますので一部を引用させていただきます。
 そして何より、2016年以降「主権者教育」が本格的に始まったにもかかわらず、10代の投票率が大幅に下がった(以前の20代よりも低い)という事実は大きい。現状の「主権者教育」が抱える問題は多いが、最大の問題は、"使える"ものになっていない点だ。文部科学省が定める主権者教育の目的は、「単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせること」、簡単にいうと、自ら社会の問題を考え、行動していく主権者を育成することだ。
 しかし実際には、問題解決の手段として、「選挙」に偏り過ぎており、多くは「仕組み」にとどまる。過去に成立した法案がどういう問題を解決するものなのかも教えられない。もちろん、実際の法案成立過程や各党の違い、政治家が日々何をしているかも、教えられることはほとんどない。模擬投票を実施している学校もあるが、多くは架空の政党・候補者であり、せっかく本物の選挙があるのに、わざわざ架空の題材を作っている。(下記で述べるような制約がある中で、その努力自体は褒められるべきだが、実にもったいない)
 ドイツなどの国々では、小学生の頃から、問題解決の手段として、「市役所への連絡方法」、「メディアへの連絡方法」、「デモの手順」など、段階にあった方法を教えられる。ノルウェーでは、中学校の社会科などの授業の一環で、子どもたちが各党の「選挙小屋」を回り、候補者やその支援者に直接質問し、各党の違いなどをまとめる。そして、選挙があれば、本物の政治家(候補者や青年部)を学校に招いて、討論会を行っており、本物の政党・候補者で模擬投票を行う。
 日本では討論会どころか、本物の政治家に会う機会もほとんどない。「よくわからない人たち」もしくは(スキャンダル報道などによって)「イメージの悪い人たち」がやっているものに対して、急に「興味を持て」と言われても、普通に考えて無理だろう。
 このように、海外の主権者教育(政治教育)では現実社会で"使える"ものになっているが、日本ではそうなっていない。(他の教科も同様かもしれないが) この背景の一つには、「政治的中立性」に関する考え方の違いがある。
 文科省は2015年10月の主権者教育に関する通知(高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について)で、「議会制民主主義など民主主義の意義、政策形成の仕組みや選挙の仕組みなどの政治や選挙の理解に加えて現実の具体的な政治的事象も取り扱い、…具体的かつ実践的な指導を行うこと」を明記している。
 しかし一方で、「学校は、…政治的中立性を確保することが求められるとともに、教員については…公正中立な立場が求められており、…法令に基づく制限などがあることに留意する」と「政治的中立」を強調し、「教員は個人的な主義主張を述べることは避け、公正かつ中立な立場で生徒を指導すること」としている。本来、誰もが政治的に「中立」であることは難しい。しかし現状の教育現場では、もし「政治的中立」から逸脱すれば、教育委員会や政治家から指摘される。そのため、この「政治的中立」を守るために具体的な事象を扱わない、先生は意見を述べない、のが正解 (現実)になっている。結果的に、上記で述べたように制度などの話にとどまり、ほとんど"使える"ものになっていない。
 他方、ドイツなどは、多様な意見を扱うことで「政治的中立」を担保しており、討論会などでは、全ての政党を招く(イデオロギーによる「拒否」は禁じているが、先方が自主的に欠席する場合など、出席は必須ではない)。
 ドイツの政治教育の指針になっている「ボイテルスバッハ・コンセンサス」では、意見が分かれる現実の政治問題を扱う際には、対立する様々な考え方を取り上げて生徒に考えさせ、その上で生徒一人ひとりの意見を尊重すること。これが守られていれば問題ないとされている。逆に言うと、意見が分かれる問題について、その真ん中の立場を探したり、そもそもそういう難しい問題を扱わないというのでは政治教育は成り立たないと考えられているということでもある。ただ日本の文科省や政治家が懸念しているように、先生が特定のイデオロギーに「誘導」することはあり得るかもしれない。そうした懸念がないのか、筆者がドイツ視察に訪れた際に、高校の校長先生に聞いたところ、(校長が答える前に!)生徒が手を挙げて、下記のように答えたことが強く印象に残っている。「先生が特定の方向(思想)に誘導しようとしたら、他の先生や親に相談するし、自分たちで判断できる」(ドイツの高校生) 逆に言えば、日本は「生徒は自分で判断できないから、意見が分かれるものは遠ざけよう」という考えが根底にあるように思える。(典型的なパターナリズムだ)
 しかし残念ながら、こうした「問題」があるにもかかわらず、自民党はこの「政治的中立」をより強化しようとしている。2019年参院選では、「教育の政治的中立性の徹底的な確立」として、下記の公約が掲げられている。

 間違っても学校教育に政治的なイデオロギーが持ち込まれることがないよう、教育公務員の政治的行為の制限違反に罰則を科すための「教育公務員特例法」の改正、及び法の適用対象を義務教育諸学校限定から高等学校などに拡大する「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」の改正。(出典:自民党 総合政策集2019 J-ファイル)

 ただでさえ日本は政治をタブー視する風潮が強く、「無色透明な」主権者教育の現場をさらに萎縮させたいのか、それははたして「主権者教育」なのか甚だ疑問である。
 政治報道と主権者教育の問題点を見てきたが、何より重要なのは、民主主義というのは「知識の獲得」ではなく、「実践」するものであるということだ。つまり、いくら教室で具体的な政治事象を学ぼうが、「民主主義」を経験しなければ、その意義や価値を実感することはできず、そうした場に参加しようと思えない。筆者が何度も書いているように、日本の若者の「政治的関心」は高い一方で、「自分が参加することで変えられる」と思っていない現状を見ると、こちらの方が重要だろう。
 例えば、スウェーデンやドイツなどでは、生徒が先生・校長らと対等に学校の校則や授業内容、給食の内容などについて話し合い、意思決定に関わる機会が確保されている。日本では、そもそも学校が民主主義になっておらず(学校だけではなく多くの会社や家庭もだが)、学校内のルールである校則なども基本的には上から決められており、遵守することばかりが重視されている。根本的には、こうしたパターナリズム的な考えをやめて、子ども・若者をきちんと社会の一員として対等に意見を尊重していく。そうした小さな積み重ねが、結果的に投票率向上にも繋がっていくだろう。選挙前だけ「投票に行こう!」と呼びかける、小手先の対処法ではもう限界だ。ずっと「子ども扱い」しておいて、有権者になって選挙に行かなかったら「最近の若者はー」と嘆く。そうした態度はあまりに無責任である。主権者教育や政治報道だけではなく、社会全体も変わっていかなければならない。「民主主義の危機」とも言える、低投票率となった今回の参院選を大きな転換点とすべきだ。
 斎藤美奈子氏が、『学校が教えないほんとうの政治の話』(ちくまプリマー新書)の中で述べられているように、本来「政治的中立」などありえないはずです。
 政治参加の第一歩は、あなたの「政治的なポジション(立場)」について考えることです。政治的なポジションは、結局のところ、二つしかありません。「体制派」か「反体制派」か、です。「体制」とは、その時代時代の社会を支配する政治のこと。したがって「体制派」とはいまの政治を支持し「このままのやり方でいい」と思っている人たち、「反体制派」はいまの政治に不満があって「別のやり方に変えたい」と考えている人たちです。
 さて、あなたはどちらでしょう。どっちでもない? あ、そうですか。そんなあなたは「ゆる体制派」「ぷち体制派」「かくれ体制派」です。どっちでもない、つまり政治に無関心で、特にこれといった意見がない人は、消極支持とみなされて自動的に「体制派」に分類されます。先にいっておきますが、政治的な立場に「中立」はありえません。(p.19)
 "政治的中立"という美名のもとに、教師や若者を「ゆる体制派」へと囲い込み、「反体制派」の芽を摘む。あるいは、使えない無味乾燥な政治教育を学校で施し、政治への興味・関心を失わせる。結果、若者たちの足が投票場から遠ざかり、組織票を有する自民党・公明党の議席が増える。そして自民党・官僚・財界という鉄のトライアングルが盤石なものであり続ける。ブラービ。
 「政治的中立」と使えない政治教育の強制は、このトライアングルによる深謀遠慮に基づいた策略だと考えざるをえません。日本はそう簡単に良くなる国じゃないということを前提に、それではどうすればよいのでしょうか。ドイツの「ボイテルスバッハ・コンセンサス」を参考に、政治教育のあり方を考え直す。学校における決定権に生徒を参与させて、積極的に発言・行動すれば価値の配分を変え、状況を改善できるという経験を積ませる。これについては『あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書』(新評論)という好著があります。また教育学者のアルフィ・コーン氏も、『報酬主義をこえて』(法政大学出版局)の中で、次のように述べられています。
 ここでわれわれの問題にとってより重要なことは、子供の社会的、道徳的発達を促すのに自律がいかに大切かということである。われわれがしょっちゅう目にするのは、子供には「自己訓練」とか「自分の行動に責任を持つ」ことが必要だと力説するおとなが、子供に指図ばかりしているという馬鹿らしい光景である。本当は、子供たちに自分の行動に対する責任をとらせたいのなら、まず責任を、それもたっぷりと、与えるべきなのだ。子供が決定のしかたを学ぶのは、実際に決定してみることによってであって、指示に従うことによってではない。(p.373)
 そして何より、子どもや若者は、大人の言うことを聞いて育つのではなく、大人の行動を見て育つもの。私たち大人が、積極的に政治的発言・行動を行ない、状況を少しでも良くしていけば、必ず彼ら/彼女らは凝視してくれるはずです。いやそう信じるしかありません。

 日本人、いや人類にとって残された唯一の希望は子供です。"子供を救え…" (『狂人日記』 魯迅 岩波書店)
by sabasaba13 | 2019-07-30 06:48 | 鶏肋 | Comments(0)