2019年 08月 15日 ( 1 )

日韓基本条約

 昨今の危機的な日韓関係、そして感情的な嫌韓発言の横溢を見ていて、映画『ハンナ・アーレント』に出てきた彼女の台詞を思い起こしました。
 ソクラテスやプラトン以来、私たちは"思考"をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。"思考の風"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。
 感情的にならず、考え抜いて、危機的状況を脱しましょう。今回の徴用工問題の核心は、日本による朝鮮植民地支配の後始末を、日韓基本条約がきちんと行ったのか/行なわなかったにあると考えます。今回はそれを考える材料を提供したいと思います。冬籠り前の栗鼠のように、読書をして大事だなと思った文章をデータとしてため込んでいますが、「日韓基本条約」で検索をかけたところ、下記の文章にヒットしました。長文ですが、参考にしていただけると幸甚です。

『在日外国人 第三版 -法の壁、心の溝』 (田中宏 岩波新書1429)
 ところで、「日韓基本条約」がむすばれた1965年当時の各紙の社説の認識はどうだったのだろうか。3月31日付の『朝日新聞』の社説「『法的地位』には筋を通せ」は、こう述べている。
 「子孫の代まで永住を保障され、しかもそのように広範囲な内国民待遇を確保するとなると、将来この狭い国土のなかに、異様な、そして解決困難な少数民族問題をかかえ込むことになりはしまいか。〔中略〕その意味で将来に禍根を残さないよう、法理上のスジを通しておくことがとくに肝要だといいたい。〔中略〕
 韓国併合といった歴史も、これから二十年、三十年の先を考えた場合、それは大多数の日本人にとって、遠い過去の一事実以上のものではなくなるだろう。独立国家の国民である韓国人が、なにゆえに日本国内で特別扱いされるのか、その説明にそれこそ苦労しなければならない時代が来るのではないだろうか。財産請求権のように、いわば過去の清算に属する事柄と、在日韓国人の法的地位のように、それこそ子々孫々につながるものとは性質が違うのである」
 こうした当時の論調をふり返ると、歴史認識なり人権感覚に大きな問題があったのは、単に日本政府当局者だけではなかったのである。越えるべき"心の溝"は深かった。(p.252~3)


『平和なき「平和主義」 戦後日本の思想と行動』 (権赫泰[クォン・ヒョクテ] 法政大学出版局)
 軍備を禁止した憲法を、軍備が支えるという奇妙な構造があるのだ。
 こうした奇妙な構造は、「片面講和」と日米安保条約の締結により生まれたため、冷戦体制と分離できない。憲法の「平和主義」は冷戦体制下での米国の対アジア戦略の産物でもある。米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の70%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。そして、この地域では、米国に与えられた役割に適合的な政治体制が必要であった。それが日本の自民党長期政権であり、韓国の反共軍事独裁政権であった。


『岩波ブックレット シリーズ昭和史№12 ベトナム戦争と日本』 (吉沢南 岩波書店)
 このように、派兵や特需によって、韓国の経済は"ベトナム・ブーム"と呼ばれる好景気をむかえることができた。その半面、戦争協力の矛盾も大きく、「朴政権は韓国将兵の"血"を代償にして、アメリカから"お手当"をちょうだいしてい」と韓国内の言論界や民衆からきびしい批判をあびることになった。そうした批判をおさえこみ、不安定な社会状況を乗りきるために、朴政権は軍事独裁的な性格をいっそう強めたが、その朴政権をささえたのが、ほかならぬ日本であった。
 14年間にもわたって難航した交渉が、この時点で急転して妥結にいたり、1965年6月、両国政府によって日韓基本条約が調印された。同年12月に発効した同条約は、日韓両国の国交を「正常化」し、日本が韓国へ5億ドルの資金・借款を提供することを取りきめていた。1945年までの半世紀にわたる日本の朝鮮にたいする植民地支配の歴史を反省し、両国間の友好をきずき、韓国の経済復興に協力して、朝鮮の南北統一実現と朝鮮半島の軍事的緊張の緩和に役立つのなら、同条約は日本の民衆にとっても歓迎すべきものであった。
 たしかに同条約は、"ベトナム・ブーム"とあいまって韓国の高度成長をうながす一つの条件をつくりだした。しかし半面、朴政権への露骨なてこ入れであり、朝鮮の南北分断を固定化し、朝鮮半島の軍事対決に日本を引きこむものであった。同時に、5億ドルの資金・借款を利用して、日本の商品や企業は、購買力がかなりほりおこされていた市場や安価で優秀な労働力をもつ韓国へ本格的な進出を開始した。
 それまで、韓国の貿易相手国はおもにアメリカだったが、60年代後半には、日本がとってかわった。日本の韓国への投資も、化学、電気・電子、機械などの製造業部門を中心に大幅に伸びた。さきに、ベトナム特需の受注合戦で、労働力の安価な韓国が日本に競り勝った、とのべたが、じつは、韓国が南ベトナムむけの生産した軍服、ジャングル・シューズ、亜鉛鉄板などの原料(布地・ゴム・鉄板)は、日本の大手メーカーと商社が韓国に輸出したものであった。これなどは、典型的な日本の間接特需といえよう。
 日韓両国間にこうした経済関係をつくりだした日韓条約の体制は、ベトナム戦争を遂行するアメリカのアジア政策の一部でもあった。1965年1月、アメリカを訪問した佐藤首相は、ジョンソン大統領と共同声明を発表し、アジアの経済開発にたいする日本の「役割の増大」を強調した。つまり、アジア周辺諸国が兵力派遣でも経済の面でも、ベトナム戦争をささえることができるように、同時に、それらの国ぐにの反共政権が安定して存続できるように、日本が経済上の役割をはたし、アメリカの負担を軽減ないし肩がわりすることを、日米間で合意したのである。いいかえれば、アメリカの公認のもとに日本はアジアに進出していったのである。
 こうした経済面での肩がわりは、軍事面にも波及した。日米安保体制下の日本の軍事力は、「自主防衛」の名のもとに増強され、在日・在韓米軍を介して、朝鮮半島の軍事情勢に結びつけられ、日・米・韓の共同作戦計画や共同演習などのうごきがいっそう活発になった。(p.47~9)


『集英社版 日本の歴史21 国際国家への出発』 (松尾尊兊 集英社)
妥結の内容
 1910年(明治43)8月22日以前の日韓間の諸条約、すなわち併合条約をふくむ諸条約の効力について、基本条約第二条は「もはや無効であることが確認される」と明記した。「もはや」を入れることにより、日本側としては当初から無効であるとする韓国の主張を退けて、大韓民国独立の1948年(昭和23)8月15日失効論、すなわち韓国併合合法論を貫いたことになる。過去の植民地支配を合法とする以上、謝罪の文言など入り込む余地はなかった。(p.291)

 日本の朝鮮統治が合法的である以上、日本側としては謝罪も賠償も行う必要はない。(p.292)

 激しい両国の反対運動ではあったが、その理由はくいちがっていた。韓国側の原則的立場を示すものとして、在ソウル文学者一同の批准反対声明の一部を掲げよう(『統一朝鮮年鑑』 1965-66年版)

 国交正常化の原則はどこまでも互恵平等に基づかなければならず、互恵平等の基礎は1910年の合併条約を含む韓日間のすべての不平等強制条約の本源的な否認と無効化を前提にせねばならず日本のわが国に対する過去のあらゆる贖罪を具体的に提示実践することを先決条件とするわが国優位の原則から出発しなければならない。

 つまりは日韓国交回復の前提として日本側の謝罪・賠償が必要だというのであるが、日本の反対運動の理由は半島の南北分断を固定化し、朴政軍事政権にテコ入れし、米・日・韓三国軍事同盟形成につながるおそれがあるというもので、日本政府は韓国に明確に謝罪し、必要な賠償は支払うべきだという意見は皆無であったといってよい。
 このように日韓条約批准に賛成するもの反対するもの双方に共通してみられた過去の朝鮮植民地支配に対する反省の欠如が、今日にいたっても日本を韓国人のもっとも嫌いな国とし、さまざまな緊張関係を両国間にもたらす原因となっている。(p.294~5)


『韓国現代史』 (文京洙[ムン ギョンス] 岩波新書984)
 李承晩政権が倒れた60年は、日本でも安保闘争がたたかわれた年であった。この安保闘争は、日本の軍事的大国化にブレーキをかけ、平和憲法の下での経済大国化という路線(所得倍増路線)を定着させた。このことは、アメリカのアジア政策のなかでの韓国の軍事的役割を否応なしにクローズアップさせた。(p.112)

 日韓会談は64年12月の第七次会談で妥結し、翌年2月仮調印、6月本調印、12月批准となった。学生たちは批准阻止闘争などを展開したが、衛戍令がしかれ、警察と軍の力でデモは封じられた。こうして押し通された日韓基本条約は、条文に植民地支配の謝罪はなく、その第二条に日韓併合条約以前に結ばれた「条約および協定は、もはや無効である」と規定されるのみであった。韓国側は、日韓併合条約は当初から違法で無効であると解釈したが、第二条は、併合条約が締結当時は有効であったとの解釈の余地を残す規定であった。
 日韓条約はアメリカからすればインドシナ戦争の後方支援の体制づくりとして結ばれた条約であった。すなわち、韓国がインドシナ戦争に軍事的に貢献し、この韓国を日本が経済的に支える仕組みがこの条約によってつくりだされた。この時期は、日本経済自体も、資本財と耐久消費財の双方の機械製品に対する大量で安定的な海外市場(前者→アジア、後者→欧米)を必要とする段階にあった。一方で、借款や輸出信用の形で韓国にもたらされた日本の資本財や中間財は、十分な輸入代替工業化を迂回するように輸出指向へと走った韓国の生産力基盤の拡充にも役立った。(p.113~4)


『日本史シブレット68 戦後補償から考える日本とアジア』 (内海愛子 山川出版社)
 「日韓条約」は、1965(昭和40)年6月22日に調印され、同年12月18日発効した。基本条約の調印と同時に、特別取り決めの一つとして「日韓請求権協定」も調印された。この「協定」で、日本が1080億円(3億ドル)の生産物と役務を、むこう10年で無償供与し、720億円(2億ドル)の生産物と役務を、むこう10年の有償供与で支払うことを決めた。これで日韓の両国民の請求権が、「完全かつ最終的」に解決したことになった。日本が経済協力をするかわりに、韓国が請求権を放棄したのである。日本政府は、この協定を受けて、請求権を消滅させる国内法を制定している。
 請求権のなかには、徴用された朝鮮人の未収金や補償金も含まれていた。韓国側は、第七次会談(1962年12月15日)で、未収金が2億5000万円あると主張していた。また、強制徴用された者は66万7684人、このなかで負傷したり死亡した人1万9603人。軍陣・軍属は36万5000人、そのうちに負傷したり死亡した人は8万3000人という数字も出していた。
 韓国は、条約では個人の財産権は消滅しない、たんに外交保護権を放棄したにすぎないのであり、損害をうけた国民の救済措置は別の問題であると主張し、何とか民間請求権を残そうと努力した。しかし、アジア諸国との賠償交渉をつみかさねてきた日本に、経済建設を急ぐ朴正熙政権が押しきられた。こうして、日韓の間の、国とその国民の間にある請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」協定が調印された。
 支払われたのは、賠償ではなく経済協力である。日本側では「韓国併合」は合法的であり「賠償」を支払う理由はない、このカネはいってみれば「独立祝い金」のようなものだとすら言われた。韓国国内では、この条約に反対する激しい運動がくりひろげられた。朴政権は反対運動を押さえ込んで、調印を強行し、条約は批准された。
 「日韓請求権協定」を、戦後補償の観点からみると、次の二点が問題となる。
 第一点は、韓国政府が日本からの経済協力の一部で、個人補償をしていることである。韓国では1971年に「対日民間請求権申告法」が、また74年12月には「対日民間請求権補償法」が制定された。これらの法律は、「日本軍によって軍人・軍属あるいは労務者として招集あるいは徴用され、1945年8月15日以前の死亡者」の遺族を補償の対象としていた。そして75~77年6月にかけて、遺族8552人に、一人あたり30万ウォン(約19万円)が支払われた。その総額は25億6560万ウォンである。また債券1円に対して30ウォンを補償し、7万4967件、66億2209万ウォンの補償をおこなっている。
 しかし、遺族は一人1000万ウォンを要求していた。74年10月には、「補償金受取拒否全国遺族団結大会」を開催するなど、補償金の少ないことに抗議していた。受け取りを拒否したり、情報が徹底していなかったり、書類が不備で受けとれなかった人もいた。時限立法であるこの法律で、補償金を受け取った人は遺族の四割にも満たない。
 一方、怪我をした人や生きて帰った人には何の補償もなかった。何の補償もないなかで、92年11月に元日本兵金成寿さんが日本政府に国家賠償を求める訴えを起こしたが、敗訴している。2001年6月29日には、韓国の軍人・軍属(遺族)252名が日本政府に対し、遺骨の返還、未払い給与や軍事郵便貯金の返還、靖国合祀の取り下げを求めて提訴している。
 第二点は在日韓国人の財産、権利の問題が解決されていないことである。
 協定では、「一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益」には、影響を及ぼさないとなっている(第二条二項a)。在日朝鮮人の請求権は、日韓条約では解決していなかったのである。
 日本政府が石成基(ソクソンギ)さんたち在日の傷痍軍人・軍属に弔慰金を支給したのは、日韓条約の対象から外されていたことも一つの要因であろう。弔慰金の支払いは「在日」に限定されており、韓国居住者は対象となっていない。
 これまで、日本政府は、韓国人からの補償請求はもちろん在日韓国人からの要求にも、「日韓協定」で「解決済み」の一点張りだった。役所でも門前払いだった。だが、戦後補償の運動が起こるなかで、1991年8月27日、参議院予算委員会で柳井俊二外務省条約局長は、次のように答弁している。

 日韓協定は、日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない。日韓両国間で、政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできないという意味である。

 放棄したのは外交保護権の行使であり、請求権は消滅していないとの見解である。92年3月27日には、衆議院法務委員会で武藤正敏外務省アジア局北東アジア課課長が、「協定」の二条一項で、日韓両国および国民の財産及び請求権が「完全かつ最終的に解決した」ことは確認しているが、これは財産権、請求権について、国家として有している外交保護権を相互に放棄したことを確認するもので、個人の財産、請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではないと答弁している。
 「協定」では韓国人の請求権は消滅していない。では、どこで消滅したのか。
 「協定」の二条三項には、署名した日に日本の管理下にある財産・請求権に対してとられる措置について、大韓民国は今後どのような主張もしないという内容の規定がある。これにもとづいて日本は、国内法を定めて日本の管理下にある財産などへの措置を決めている。これが法律144号と呼ばれるものである。この「国内法」で日本国内にある韓国人の債権などが消滅した。韓国人の請求権の消滅は「協定」ではなく、日本の国内法でおこなわれたのである。国家がこのように、他国民の権利を放棄できるのか、争点が残る。(p.57~62)

by sabasaba13 | 2019-08-15 08:02 | 鶏肋 | Comments(0)