2019年 09月 16日 ( 1 )

福井・富山編(6):山中温泉(16.3)

 ここから電柱がなく幅の広い歩道が整備されており、山中漆器や九谷焼などのギャラリー、カフェやお食事処が数多く軒を連ねています。「ゆげ街道」と言い、なかなかの賑わいですが、少し前までは閑古鳥が鳴いていたそうです。危機感をもった商店街の方々によってこの歩道が整備され、道路の拡幅にあわせて店舗を改装し、1店舗2業種運動を展開して湯治客を呼び戻したとのこと。
 こちらには「芭蕉逗留 泉屋の趾 -桃妖ゆかりの宿-」という記念碑がありました。
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 後学のために転記します。
 元禄2年(1689)秋、松尾芭蕉は「奥の細道」の途中山中温泉に立寄り長谷部信連(のぶつら)公ゆかりの「泉屋」に八泊九日間を逗留し旅の疲れを癒した。この宿の主人久米之助はまだ十四才の若者であったが、その才能と将来性を芭蕉に認められ「桃の木の 其葉ちらすな 秋の風」の一句とともに芭蕉の俳号「桃青」の一字をいただき「桃妖」の号を贈られた。以来、蕉風発展につとめ多くの俳人達が、この地を訪れ、加賀俳壇にその名をなした。

 紙鳶切て 白根ヶ嶽を 行衛哉   桃妖
 行燈の 献立をよむ 涼かな    桃妖
 旅人を 迎に出れば ほたるかな   桃妖
 うーむ、いい話ですねえ。俳諧という文芸を通して広がっていくネットワーク。師匠が若い才能を見出し育て、弟子は師匠の後塵を拝しながら、同好の輪を広げていく。何よりも凄いと思うのは、こうしたネットワークが貴族のサロンではなく、庶民の間で取り結ばれたことです。江戸という時代の奥深さを思い知ります。ひるがえって、SNSだの、ツイッターだの、フェイスブックだので、無味乾燥・無機質・無意味な言葉をやりとりする私たち。もしかすると、文化的には江戸時代から見て退化したのでは、とすら思えてきます。

 なお参考のために、当該部分を『奥の細道 朗読』から引用させていただきます。
【原文】
 温泉に浴す。其功有明に次と云。

 山中や菊はたおらぬ湯の匂

 あるじとする物は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
 曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、

 行ゝてたふれ伏とも萩の原 曾良

 と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、

 今日よりや書付消さん笠の露


【現代語訳】
 山中温泉に入る。その効用は、有馬温泉に次ぐという。

 山中や菊はたおらぬ湯の匂
 (意味) 菊の露を飲んで七百歳まで生きたという菊児童の伝説があるが、ここ山中では菊の力によらずとも、この湯の香りを吸っていると十分に長寿のききめがありそうだ。

 主人にあたるものは久米之助といって、いまだ少年である。その父は俳諧をたしなむ人だ。京都の安原貞室がまだ若い頃、ここに来た時俳諧の席で恥をかいたことがある。貞室はその経験をばねにして、京都に帰って松永貞徳に入門し、ついには世に知られる立派な俳諧師となった。名声が上がった後も、貞室は(自分を奮起させてくれたこの地に感謝して)俳諧の添削料を受けなかったという。こんな話ももう昔のこととなってしまった。
 曾良は腹をわずらって、伊勢の長島というところに親戚がいるので、そこを頼って一足先に出発した。

 行行てたふれ伏とも萩の原 曾良
 (意味) このまま行けるところまで行って、最期は萩の原で倒れ、旅の途上で死のう。それくらいの、旅にかける志である。

 行く者の悲しみ、残る者の無念さ、二羽で飛んでいた鳥が離れ離れになって、雲の間に行き先を失うようなものである。私も句を詠んだ。

 今日よりや書付消さん笠の露
 (意味) ずっと旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも私の涙か。
 そうか、山中温泉を訪れた直後に、病の曾良と別れたのか。その後、曾良は幕府巡見使として壱岐を訪れて病気となり、勝本で没しました。時は1710(宝永7)年5月22日、享年62歳。壱岐の勝本で彼の墓を訪れたことを懐かしく思い出しました。旅をしていると、過去の人物や事件がいろいろとつながってくることがよくあります。だから旅は面白い。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-09-16 07:42 | 中部 | Comments(0)