2019年 10月 24日 ( 1 )

福井・富山編(40):藤野厳九郎記念館(16.3)

 そして一番感銘を受けたのは、魯迅に贈られた藤野厳九郎のポートレートです。裏には「惜別 藤野 謹呈周君」と記されています。そしてこのポートレートが飾られている魯迅の書斎の写真。
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 ふたたび『藤野先生』から引用します。
 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。(p.249)

 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。
 彼が手を入れてくれたノートを、私は三冊の厚い本に綴じ、永久の記念にするつもりで、大切にしまっておいた。不幸にして七年前、引越しのときに、途中で本箱を一つこわし、そのなかの書籍を半数失った。あいにくこのノートも、失われたなかにあった。運送屋を督促して探させたが、返事もよこさなかった。ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。(p.250~1)
 中国脅威論だの反中だの、きな臭い話をよく耳にしますが、「オールジャパン」対「オールチャイナ」のような単純な二項対立に陥ることは現に慎みたいと思います。藤野先生と魯迅、この二人のように、たとえ異邦人であろうとも互いを人間として敬う、それが難しいのであれば人間として接する心を持ちたいものです。太宰治に、この二人を題材とした『惜別』という小説がありますが、その中で藤野先生はこう言っていました。
 「…何もむずかしく考える事はない」 先生は笑いながら立ち上り、「一口で言えるやないか? 支那の人を、ばかにせぬ事。それだけや」
 というわけで、たいへん充実した時を過ごせました。なお中国の方々が訪れていて、熱心に説明を聞いておられたのが印象的でした。私もいつの日にか、上海にある魯迅の史跡や、北京魯迅博物館を訪れてみたいものです。

 本日の三枚です。
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 追記です。前述の『魯迅選集 第二巻』(岩波書店)に所収されている、竹内好による解説を紹介します。
 1935年、佐藤春夫、増田渉共訳の『魯迅選集』が岩波文庫から出るとき、作品に何を選んだらよいか魯迅に問い合わせたところ、選集は勝手にしてよろしいが「藤野先生」だけは入れてほしい、という注文があった。藤野厳九郎氏の行方を魯迅は気にしていたのである。しかし魯迅の生前、その所在は確められなかった。歿後、魯迅の名がジャーナリズムに評判になってはじめて、藤野先生が当時まだ、福井県坂井郡雄島村に健在であることがわかった。(p.286)
 満州事変、「満州国」設立、華北侵略といった日本による中国侵略が押し進められているなかで、魯迅による日本の民衆への友好のメッセージも込められていたのではないでしょうか。そんな気がしてなりません。
by sabasaba13 | 2019-10-24 06:19 | 中部 | Comments(0)