2019年 12月 10日 ( 1 )

福井・富山編(77):八尾(16.3)

 そして「八尾おわら資料館」に入館、ビデオで風の盆を堪能いたしました。エキゾチックな胡弓の調べにのって、ひめやかに踊る男女。いいですね、ほんとうにいつか見に来たいものです。風の盆で使われる三味線と胡弓も展示してありました。
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 トイレの男女表示はもちろんおわら風の盆。
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 なお新作おわらと、おわら風の盆という名前の由来について解説がありましたので、後学のために転記しておきます。
 おわらのうたは、前囃子・本歌・後囃子で組まれ、七七七五の句で構成されています。現在うたわれる本歌には、「古謡おわら」と「新作おわら」があります。川柳や都都逸などから様々にうたわれていた古謡を、より洗練させるように依頼された小杉放庵が、昭和4年「八尾四季」を発表、以後野口雨情佐藤惣之助ら文人と、町の文壇を率いる青年たちが主となって、新作おわらがうたわれるようになりました。

小杉放庵
ゆらぐ釣橋手に手を取りて 渡る井田川 オワラ 春の風

野口雨情
軒端雀がまたきて覗く きょうも糸繰りゃ オワラ 手につかぬ

佐藤惣之助 「人生劇場」
八尾おわらをしみじみきけば むかし山風 オワラ 草の声


「おわら」、「風の盆」の由来について

 越中おわら節は、江戸時代の元禄年間(1688~1703)から始められたと伝えられており、すでに三百年以上の歴史があります。
 しかしながら、民衆の間で生まれた芸能のほとんどがそうであるように、越中おわら節においても「おわら」や「風の盆」の名の由来を特定することは難しく、これまで様々な説が唱えられてきました。
以下に、その主だったものをご紹介します。


「おわら」について
1 「お笑い節」説
文化九年(1812)の秋、遊芸の達人たちが滑稽な変装をして新作の歌を唄いながら町練りをおこない、歌詞の中に「おわらひ」という語を差しはさんで唄ったことから、当初は「おわらひ節」と言われ、後に「おわら節」になった。
2 「大藁(おおわら)節」説
豊年満作を祈り、藁の束が大きくなるようにとの願いから「大藁節」と言われ、これが「おわら」に転じた。
3 「小原(おはら)村」説
八尾近郊の小原村(桐谷地区)出身の娘さんが唄った「糸繰り歌」がまことに美しく、誰もが聞きほれ、人々は「小原の節」として習い唄いはじめた。一説には子守歌との説もあり。
4 「小原比丘尼」説
文化年間(1804~1817)のころ、学問にすぐれ、諸芸に通じていた京都の尼・小原比丘尼が八尾の近郊・下笹原村に移り住むようになった。ある年の盂蘭盆の時、八尾の町へ托鉢に出た小原尼は、町の中で様々に歌い踊っている人々の様子を見て新しく盆歌をつくり、これが今日に伝わるおわら節になった;


「風の盆」について
1 「風鎮め」説
おわら風の盆がおこなわれる9月1日は旧暦の八朔(八月朔日)で、春分から百十日目に当たり、台風到来のシーズンと重なる風の厄災日とされてきた。この八朔の日に日本各地では様々な農耕儀礼がおこなわれ、八尾の「風の盆」は、風を鎮めることを祈る踊りとして考えられることから、「風の盆」と言われるようになった。

2 「風流、風雅」説
日本や中国の古代において、「風」という言葉は野山を吹きわたる風(wind)としてばかりか、「歌謡」、ことに地方に伝わる「民謡」のことを意味した。これは孔子が編纂した中国最古の詩集『詩経』において、各地に伝わる民謡を「国風」と表現し、日本の古代にまとめられた『風土記』の「風」も地方の民謡のことをあらわすことから、古代より「風」と「音楽」が同義であることが理解される。
以上のことから、「風の盆」はまさに、人々が夜を徹して唄い踊る「歌舞音曲の祭礼」として理解することができる。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-12-10 06:20 | 中部 | Comments(0)