2019年 12月 29日 ( 1 )

御殿場編(4):東山旧岸邸(16.5)

 モダンなテイストと落ち着いた雰囲気の数寄屋造りが素敵に調和した、上品な建物です。庭の新緑を愛でながら、しばし寛ぎました。岸信介は1970(昭和45)年にここに引っ越し、亡くなるまでの17年間を過ごしたそうですが、この椅子に座りこの庭を見ながら何を思っていたのでしょう。そもそも彼はどのような人物なのか。日本大百科全書(ニッポニカ)から引用します。
岸信介 (1896―1987)
 政治家。山口県生まれ。佐藤栄作は実弟。旧制一高を経て1920年(大正9)東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省。1931年(昭和6)商工省で重要産業統制法の立案・実施にあたり、以降革新官僚の頭目として軍部(統制派)との連携を強めた。1936年、工務局長を辞し「満州国」実業部次長として渡満、満州産業開発五か年計画を実施し、実際上の責任者として「満州国」の経済軍事化を推進した。帰国後、1940年商工次官。1941年東条英機内閣の商工大臣となり、太平洋戦争開戦の詔書に連署した。1942年翼賛選挙で当選し、政治基盤を獲得。1943年国務大臣兼軍需次官として戦時経済体制の実質的な最高指導者となった。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、1948年(昭和23)末釈放。1952年公職追放を解除され、日本再建連盟を結成。1953年3月自由党に入り、翌月の総選挙に当選し(山口2区)政界復帰。党内の憲法調査会長として憲法改正・再軍備を唱道した。1954年鳩山一郎らとともに自由党を除名され日本民主党結成に参加、幹事長となった。1955年保守合同後、自由民主党の幹事長。翌年総裁選で石橋湛山に敗れ、石橋内閣の外相に就任。1957年2月石橋首相の病気退陣により自民党総裁に選ばれ内閣を組織した。日米安全保障条約の改定を国民的な反対運動のなかで強行したため、1960年7月総辞職した。以後1979年まで衆議院議員。首相経験者として自民党最高顧問を務めた。状況変化に俊敏に対応し、変わり身が早く、情勢判断力・政治力にたけた典型的な官僚政治家とみなされている。
 戦前の「満州国」においては産業部次長・総務庁次長を務め、星野直樹(総務長官)、東条英機(関東軍憲兵司令官、関東軍参謀総長)、鮎川義介(満洲重工業総裁)、松岡洋右(満鉄総裁)とともに満州国を牛耳る二キ三スケと呼ばれました。東条英機内閣の商工相・軍需相として、「華人労務者内地移入ニ関スル件」という閣議決定(1942.11.27)に関与したのも岸信介です。この閣議決定にもとづいて、日本軍は多数の中国人をとらえ、大部分は中国で使い、その他約百万人を満州国に送りました。そのほかに38,935名を日本に強制連行して、日本国内135カ所の炭鉱、金属鉱山、土建、港湾荷役に働かせ、その六分の一の6,830名をわずか二年間のうちに死亡させています。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-12-29 07:35 | 中部 | Comments(0)