2020年 01月 09日 ( 1 )

御殿場編(6):東山旧岸邸(16.5)

 最後にもうひとつ。岸信介が、日中関係に重大な影響を及ぼすことをしでかしたことを、『昭和天皇の戦後日本 〈憲法・安保体制〉にいたる道』(豊下楢彦 岩波書店)を読んで知りました。ぜひ紹介したいと思います。
 ところで、この1982年は右の教科書問題以外に、日本国内ではほとんど知られることはなかったが、中国側が強いリアクションを起こし、日中関係に重大な影響を及ぼすことになった事態が生じていた。それは同年2月に、岸信介元首相を会長に擁した「満州建国之碑」の「建設会」が発足したことであった。その趣旨は、「理想国家をつくろうとした歴史のなかでたくさんの人がなくなった。民族を問わず、万霊を供養する」というものであった。
 しかし中国侵略のシンボルとしての傀儡国家・満州国を「理想国家」と位置づけ、その「建国」を顕彰することを目的に、かつて満州経営の中心人物として辣腕をふるった岸信介を「建設会」の会長に据えるなどということは、中国側の神経を二重三重に逆なでするものであった。かくして、右の教科書問題の影響もあって、結局のところ右の計画は取り止めになった(『朝日新聞』 1982.9.15)。
 計画は取り止めになったとはいえ、戦後三十数年も経て、"亡霊"のごとく戦前・戦中の記憶が呼び戻されるような事態に、中国側は厳しい対応を示した。実は、1972年の国交正常化以降の10年間近くは「日中間の歴史問題をめぐる摩擦は奇妙なほど目立たなかった」のである。だからこそ、「1980年、抗日戦争勝利35周年にあたる節目の年でさえ、中国では大規模イベントは実施されず、『人民日報』にも戦争関連の社説は見あたらなかった」のである。
 ところが、右の岸信介を擁した「建設会」の動きが明らかになると、中国政府の要人は、「日本で満州建国之碑」を建てるなら、私たちは「日本侵略者之碑」を建てねばならなくなる」として、対抗的に侵略遺跡の保存や戦争記念館の建設に着手することを示唆した。かくして、同1982年に中国政府と共産党中央委員会は、全土に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して愛国主義的教育を推進するように指示を出し、翌83年に「南京大虐殺記念館」の設立が決定され、抗日戦争勝利の40周年にあたる85年8月15日に同館はオープンしたのであった。まさに、5年前の35周年の場合とは様変わりの様相を呈したのである。ちなみに、満州国のあった東北地方では、「吉林省偽皇宮陳列館」(84年)、「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」(85年)、「撫順戦犯管理所旧址陳列館」(87年)が相次いで開館した。
 以上の経緯を踏まえるならば、岸信介らの時代錯誤的で隣国の神経を逆なでするような無謀な取り組みがなかったならば、「南京大虐殺記念館」をはじめ数々の「反日記念館」も建立されなかったかも知れないのである。中国や韓国が「歴史問題」を政治的プロパガンダとして用い、世論を扇動する道具として利用していることは間違いのないところであるが、右に見たように、1980年代から今日に至る日中間の歴史問題をめぐる対立状況については、不幸にして日本の側が「引き金」を引いたと言わざるをえない。(p.273~5)
 "隣国の神経を逆なでするような無謀な取り組み"か。血は争えませんね、岸さん、あなたのお孫さんも同じようなことをしていますよ。なお岸信介は次のような言葉を残しています。このあたりもお孫さんは、しっかりと受け継いでいるようです。
 諸君が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、その濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2020-01-09 06:22 | 中部 | Comments(0)