2020年 01月 13日 ( 1 )

御殿場編(8):秩父宮記念公園(16.5)

 それでは秩父宮記念公園へと参りましょう。途中に、湖面に映る逆さ富士の姿が美しいという東山湖という人造湖に寄りましたが、残念ながら薄雲のなかでおぼろげにしか見えませんでした。なおこちらはスポーツフィッシングのメッカとしても有名だそうで、太公望たちが釣果を競っていました。
 そして秩父宮記念公園にとうちゃこ。まずはデジタル版 日本人名大辞典+Plusから引用します。
秩父宮雍仁(やすひと)親王 (1902-1953)
 大正天皇の第2皇子。明治35年6月25日生まれ。母は貞明皇后。オックスフォード大に留学。昭和3年松平恒雄の長女勢津子と結婚。12年イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に天皇名代で参列。登山をはじめスポーツ好きで知られた。20年陸軍少将。昭和28年1月4日死去。50歳。陸軍大学校卒。
 ここ秩父宮記念公園は、秩父宮雍仁親王夫妻が過ごした元別邸を整備、公開した公園です。元々は、血盟団事件で暗殺された井上準之助蔵相の元別荘でしたが、1941(昭和16)年に宮家が購入して秩父宮御殿場御別邸とされ、戦中戦後の時期をここで過ごしました。
 それでは中へ入りましょう。檜の並木をすこし歩くと、市内の農家から移築された1723年築の茅葺屋根の母屋がありました。その前にある、富士山に対峙する登山服姿の秩父宮像は、朝倉文夫作だそうです。
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 なお将校用防空壕が公開されているという掲示があったので、まずそちらへ行ってみました。
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 コンクリートでがっちりと作られたいかにも頑丈そうなもので、これなら爆弾にも耐えられそうです。庶民のためにもこうした防空壕をつくれば、犠牲も減ったであろうに。それは無理だろうって? いや「国民を守る」という志さえあればできたはずです。実際、ヴェトナムではつくったのですから。『一人の声が世界を変えた!』(伊藤千尋 新日本出版社)から引用します。
 1972年12月の12日間にわたってアメリカ軍は首都ハノイを空襲した。…8万トンの爆弾が落とされ、市民1318人がなくなった。…東京大空襲…一晩で10万人が死んだ…爆弾は1700トンだった。
 それは防空壕の違いだ。ハノイの防空壕は、…トンネルのように深く掘られていた。しかも、道路のあちこちに防空壕が完備されていた。軍と市民が総出で空襲に備えたのだ。これに対して日本の防空壕の多くは役に立たなかった。防空壕として用をなしたのは皇居と陸軍本営だけだったと言われる。
 つまり、ベトナムと日本では、守るべき対象が違ったのだ。ベトナムは国をあげて国民を守ろうとした。しかし、アジア太平洋戦争当時の日本が守ろうとしたのは皇居と陸軍だけだったのだ。
 同じことを作家の司馬遼太郎氏が書いている。戦争末期に司馬氏がいた東京郊外の戦車隊に大本営から参謀が来て、敵軍が東京湾に上陸したさいの行動を示した。皇居を目指して進軍せよという内容だった。これに対して素朴な質問が出た。都心から逃げてくる市民が道路をふさいで戦車は通れないのではないか、というものだ。参謀は「軍の行方をじゃまするヤツは非国民だからひいて行け」と言ったという。日本の陸軍にとって国民の命などどうでもよかったのだ。彼らが守ろうとしたのは国民ではない。国体と軍隊だけだった。ベトナムは違う。国民を守ろうとした。
 国民を守ろうとした政府、この政府をもり立てて超大国に負けまいとした国民。ベトナム戦争で小国ベトナムが勝った理由はここにも見て取れる。国民に死ねと言い指導者のみが生き残りをはかるような政権を、国民はどうして心から支持できるだろうか。
 国家と国民が同じ意味になったときに初めて、人は自立して戦うのだ。(p.125~7)
 往時も今も、この"棄民"の国は変わっていないのですね。国民を犠牲にして権力者や富裕者が利権を貪り、そうした国のあり方に多くの人びとが疑問を持たない。国民の生命や生活や財産を守ることが国家の存在理由であり、その使命を全うしようとしない国家権力は首をすげ替えてしかるべきなのにね。そうそう、『週刊金曜日』(№1246 19.8.30)に、『暮しの手帖』の創刊者である花森安治の、「見よぼくらの一銭五厘の旗」という詩の一部が紹介されていました。
 民主々義の〈民〉は庶民の民だ/ぼくらの暮しを 何よりも第一にするということだ/ぼくらの暮しと 企業の利益とがぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ (p.18)
 なお秩父宮夫妻の防空壕は発掘・調査中で中には入れませんでした。解説板に、勢津子夫人が書いた『銀のボンボニエール』(主婦の友社)の一節が記されていました。
 七月三十日、空襲警報が鳴ったと思うと、御殿場駅の方角でドカーンという大きい音がつづけざまに聞こえてきました。私にもそれが爆弾の音だとすぐにわかりました。御殿場駅から東へ三キロのこの地もいよいよ危ないと思い、手伝いの者と急ぎ走って帰り、宮さまを皆で囲むようにして初めて防空壕に退避いたしました。後で聞くところによりますが、艦載機数機が御殿場駅構内を機銃掃射し、駅付近に五十キロ爆弾を八個投下したということです。
 そして母屋の内部を見学。囲炉裏のある座敷や椅子・テーブルのある洋間などを拝見しました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2020-01-13 07:58 | 中部 | Comments(0)